大企業に派遣で入り、34歳で執行役員になった男が日本企業の「決められない」体質から学んだこと
最初はアメリカかぶれで、空気も読まなかったが、仕事を円滑に進めるため「根回し2.0」を身に着けた――。学歴もなく、派遣のITヘルプデスクとして日本の大手企業に入り、10年間で最年少執行役員にまで駆け上がった二宮英樹氏がつづる、国内外で役立つ仕事術。
【二宮英樹】日本企業でグローバル事業に関わる方々の多くが、海外子会社の事業管理、ビジネスパートナーとのアライアンス、海外M&A、事業上のトラブル対応に奮闘している。 【動画】20年後のデスクワーカーの姿?等身大人形「エマ」 学校で学んだ杓子定規の知識だけでは太刀打ちできない。経営企画の中期計画策定のような机上で練り上げる戦略というよりも、むしろ、胆力とともに高い行動力によって生み出される結果が重要視される。 日本人がグローバルのフィールドでリーダーシップを取る上で必要なことは「詰めるチカラ」だと思う。 私が前職で海外案件業務を担当しているときにストレスだったことのいくつかは「決められない」「決めるのに時間がかかる」「決定権のある人間が会議に出てこない」「自分の意見をはっきり言わず、評論ばかりする」「周りに忖度をした発言しかしない」「重要な決断を後回しにする」といった、日本人にありがちなビジネス体質だった。 私は現在、起業して欧米の高度サイバーセキュリティ企業や専門家及び中東欧ハイテク人材のネットワークを通じて企業のデジタル化を支援している。いわばグローバルビジネスのど真ん中で仕事をしているわけだが、こうした日本人のビジネス体質への対処を含め、前職で培った経験がその基盤となっている。 前職――学歴は短大卒、コネも資格もなく、派遣社員として入社した大塚製薬だ。私はそこで10年間、試行錯誤を続けながら働き、34歳で大塚グループの最年少執行役員にまで駆け上がった。 なぜ、そんな出世ができたのか。典型的な日本の組織でどうやって「詰めるチカラ」を身に着け、今に至ったのか。詳しくは拙著『派遣で入った僕が、34歳で巨大グループ企業の役員になった小さな成功法則』(ダイヤモンド社)に記したが、私の経験を参考にしてもらえたらと思う。
派遣のITヘルプデスクから海外案件担当になれたワケ
田舎の高校に通っていたときに音楽にどっぷりハマった私は、音楽への憧れだけで渡米した。語学学校を経て、2年制の短大に通う間になんとかコミュニケーションは取れるようになり、独学で学んだITの知識を活かして、小さなビジネスを始めた。 時は2001年。9.11が起こり、労働ビザ取得の道が閉ざされたので、泣く泣く帰国した。当時の日本は、ITバブル崩壊後の景気低迷期で、学歴も資格もなかった私は、新卒や中途採用として日本の大手企業に正攻法で入ることは難しい。 そこで派遣社員として、大塚製薬のITヘルプデスクで働くことにした。24歳だった。 留学時代に独学で身に着けたITの知識だけが頼りだった。ただ、当時はあまり英語ができる人がいないIT部門の中で、たった一人の海外経験者ということで「二宮に英語の仕事をお願いしよう」と思われたことが全ての始まりだ。 海外からの電話やメールへの対応を一手に頼まれるようになった。留学していたとはいえ、フォーマルなビジネス英語を日常的に使った経験がない当時の自分は、カジュアルな英語表現に加えて、辞書を片手に調べた内容でコミュニケーションに励んでいく。その仕事の中で、海外のスタッフが送ってくる英文メールからさまざまなシーンの言い回しや単語などを見取って真似、海外からの電話でビジネス英語の挨拶を学んだ。 「依頼を受けたら、必ずやり通す」を信条に、依頼された仕事に必死で取り組むうちに、英語を使ったビジネスのコミュニケーションがストレスなくできるようになっていった。 そのうち、海外対応を中心とする契約社員になった。海外のグループ企業を巻き込んだインフラストラクチャ統合や社長直轄プロジェクトなどに取り組んだ。そして30歳になってすぐにIT推進室長補佐に。同時に正社員となり、さらにグローバルのITプロジェクトに参画するようになって、リーダーの役を果たした。 その後、大塚グループにおける「レガシーの壁」を解決すべく、派遣社員で入って10年目の34歳で、グループ事業会社の執行役員IT統括部長に抜擢された。それから3年間奮闘してレガシー問題を解決し、培った人脈を生かして独立に至った。 自分の得意分野だったIT関連業務を極め、依頼された仕事は期待に応えるよう全力で取り組む。ただただ愚直に走り続けた10年があって現在の私がある。