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工藤了

途切れた「離農」と「就農」を結ぶ、酪農の町で

2017/02/12(日) 15:13 配信

オリジナル

濃厚。リッチ。プレミアム。甘い響きの言葉が消費者を誘う。クリームたっぷりのパンケーキ、カフェラテやカプチーノなど、乳製品は私たちの生活に欠かせない。新鮮な牛乳もコンビニに行くといつでも手に入る。支えているのは「酪農家」だが、後継者不足や経営難で、その数は減り続けている。酪農に憧れ、新規就農を希望する人たちもさまざまな課題に阻まれ、一筋縄ではいかない。北海道・中頓別。酪農の町から、就農希望者の現在を見つめる。
(作家・伊勢華子/Yahoo!ニュース編集部)

私たちの日常に身近な牛乳(撮影:工藤了)

つり合わない牛と人の数

現在の酪農家数は全国で1.7万戸。1963年のピーク時の41.7万戸から大きく数を減らしている。

飼育と搾乳の技術が進むことで、一戸当たりの牛舎の規模は以前より大きくなった。牛の飼育数も増え、さらに栄養価の高い飼料によって一頭の牛から搾れる乳量も増加した。

けれども私たちの目の前には技術の進歩を活かそうにも、労働力が追いつかない離農時代が訪れようとしている。法人化が進んでいる今でも、酪農家の85%は非法人。80%が常勤雇用者0人。つまり家族経営への依存度が圧倒的に高い。そこに追い打ちをかけるのが輸入に頼っている飼料費の高騰だ。

清潔な牛舎は、牛の健康管理にも安全な牛乳のためにも大切(撮影:工藤了)

危機脱却への鍵を握るのは、自ら経営者となって酪農を始めたいという新規就農希望者たちだ。

そんな彼らが厳しい就農への覚悟をもって飛び込んでくる町がある。

北海道・中頓別町。人口1775人の小さな酪農の町である。宗谷岬から80kmに位置するその土地は、冬はマイナス30度が続く日もあり、稲作の北限域を遥かに超えている。

大畑山から見渡す中頓別市街地(撮影:工藤了)

藤本の場合

藤本亨(41)は、中頓別に来て2年になる。

「実家は(十勝地方北部の)上士幌で畑作をやってます。わざわざ酪農なんかしないで、実家を継げばいいのにってよく言われますよ。でも畑は種蒔きも収穫も年に一度。毎日搾乳がある酪農のサイクルが僕には合うなって」

札幌で会社勤めをしていた藤本が、牛舎で働く自分の姿を思い浮かべたのは30歳になる頃だった。土と戯れながら育った藤本にとって、牛を牧場に放し飼いする「放牧」は小さい頃からの憧れだった。「地元での就農も考えたけど上士幌は人気で放牧できるような広い土地の空きがないし、あったとしても土地代が高いんです」

作業の合間に一息つく藤本夫妻(撮影:工藤了)

新規就農者が、酪農家としてスタートを切るには三つの条件が必要となる。

・技術の習得
・資金の確保
・農地の確保

中でも農地の確保は、新規就農希望者にとって大きな壁になっている。

藤本も例外ではなく、技術は酪農を志してからそれまでの7年の間に様々な酪農家のもとで働くことで身についていた。資金は60ないし65歳までに返済する借金と役場等からの助成金で行う見通しが立っていた。

就農希望者たちが集まる勉強会があると聞くと、必ず藤本は顔を出した。「農業をやりたい人は、景気が悪いと増えるんですよ。今は景気が良くなってるのか来る人も減ってますけどね」

藤本の誠実さがここまでの長い道のりを支えてきた(撮影:工藤了)

勉強会で藤本は、十勝や根室などの道東に比べて、道北の方が就農しやすいという情報を耳にした。地図を見ながら稚内から枝幸にかけての宗谷エリアの役場を、順番に連絡していくうちに中頓別町に辿りついた。内陸ではあったがすぐ近くにはオホーツク海があった。「農協に問い合わせたら、研修生として働けるところに空きがあるって事で、すぐ引っ越しました」

それまで教員住宅だった建物が藤本の住まいになった。研修生として牧草の収穫から飼料調整を行うセンターや人手不足の酪農家の手伝いをしながら自分が就農できる場所を探す新生活が始まった。藤本にとって残すは農地の確保となった。

藤本が魅了された山あいの牧草地(撮影:工藤了)

ある日、藤本は町の郊外に大きな空き牧場を見つけた。壮大で四方を山に抱かれた見事な景観だった。自分の牛がここで草を食む姿を思い浮かべると藤本は俄然嬉しくなった。「思いましたね。是非ここでやりたいって」

そこは離農してまもない姉歯和男(68)の牧場であった。

渡らない酪農のバトン

47年間の酪農生活を終えたばかりの姉歯和男は、穏やかな表情で牧草地を見渡している。「見てのとおりの山間酪農。搾乳するのに牛舎に牛を呼ぶ以外は、夜でも冬でも放牧させてた。牛は寒さに強いから雪の上でも問題ない。閉じ込めとくより運動させてたほうが健やかだ」

朝夕、ヤギの世話をする姉歯。離農して牛舎やサイロは潰したが、子牛用の牛舎だけはヤギ用にと残した(撮影:工藤了)

姉歯の酪農家としての歳月は、農協への借金をゼロにするまでの歳月とぴったり同じだった。その日を迎えた朝、姉歯はあっさり牧場をたたんだ。

「子どもは4人。上のは酪農の大学に行った」。長男は卒業すると中頓別に戻って姉歯を手伝った。しかし、2年が過ぎると黙って家を出て行った。「あと何カ月か酪農続けてたら、大学の奨学金の返済は免除になったのに……。金だけはどこかから郵便で送ってきた」

返済のための送金が終わると、長男との繋がりも途絶えた。家を出た長男を捜し出してまで、牧場を継がせようという気にはなれなかった。

「人に迷惑かけずここまでようやってきた」と牧草を眺める姉歯夫妻(撮影:工藤了)

飛びつくことのできない夢

放牧酪農に憧れていた藤本にとって、姉歯の牧場は理想とぴったりだった。それでも、藤本がその土地を継ぐことは叶わなかった。

新規就農者の窓口になっている中頓別町役場の産業建設課の平中敏志(49)は言う。「負担が大きくならないように、4000万円台で入れて牛40頭くらいで始められる規模のところを勧めます」。新規就農者にとってまず不可欠なのは、膨大で長期に及ぶ借金を無理なく返済していくための「就農者の生活の安定」である。土地や牛の購入のための借入金の他、牛舎や住居の改築や立て替えにも経費がかかる。

牛舎に残されていた搾乳道具。これらを片付けるだけで一日が過ぎていく(撮影:工藤了)

長年使い古された姉歯の牛舎は大きな修繕費がかかるし、姉歯のような離農者の側にも数千万円かけて後継ぎがいない牛舎を修繕する理由はない。新規就農者へ町が出している1200万円の補助金を足したとしても、農場の現在の状況や規模を度外視して安易に勧めることはできない状況がある。

藤本は今でも悔しそうに話す。「僕としては、あそこは少しずつ直しながら使えたらくらいに思っていたんですけどね。あの時、僕が再建計画をびっちり詰めて、この場所でもやっていけるってことを周りに説得できてたら……。違ってたかもしれないです」

藤本は、30ヘクタール、牛40頭で始める予定だ(撮影:工藤了)

就農者と離農者の行き先

その後、藤本は別の牧場を見に行った。

牧場主の息子が後を継いだが体調を崩しやむなく離農。隣接している住宅に残ったおばあさんが一人暮らしをしていた。牛舎には道具類が放置されたまま埃がかぶっていた。設備の揃った牛舎を眺めながら、藤本はこの農家の離農が急であったことを察した。おばあさんは藤本をじっと見て手を引いた。「ワ、ワシは……ど、どこへ行ったらええんだ?」

朝夕の酪農、牛の出産サイクルなど24時間体制である酪農家にとって、牛舎と自宅は近隣になければならない。しかし就農希望者にとっては離農地でも、そこで暮らす者にとっては住み慣れた家であることに変わりはなかった。

その後、息子と話したおばあさんは市街地の公営住宅に転居する事を決心した。離農から5年の空白がその牧場にはあった。

牛が来るのを待つのみになった藤本の牛舎(撮影:工藤了)

藤本はそこで酪農を始めることにした。「40頭で始める予定です。放牧でやるんで牧草地を増やしたいけど。離れた場所しかないんで。姉歯さんみたいな放牧は……まあ無理ですね」

「自分の理想の場所を探しながら、酪農ヘルパーや研修生をやってる人はたくさんいるんですよ。僕の場合結婚もしたし、そろそろ現実的にって事で」

牛舎の奥の鉄屑を慣れない様子で片付けている新妻を遠目に、休むことなくトラクターを動かして堆肥を牧草地へ運びだす。酪農家藤本の人生が北の大地でようやくスタートを切る。就農を志してから7年が過ぎていた。

黙々と、堆肥を積み込む藤本(撮影:工藤了)

結婚という思わぬ条件

藤本から1年遅れて、棈松(あべまつ)智通(40)も中頓別へ研修生としてやって来た。

「埼玉の公務員の家庭で育ったんですよ。子どもの頃から獣医になりたくて大学は獣医学部を受験。でも試験に落ちて農学部に進みました」

棈松。一日も早く就農したいと切磋琢磨しても、現実は厳しい(撮影:工藤了)

それが転機となり卒業すると農業の現場で働きたいと思い北海道に渡った。「最初の年は十勝の酪農家でアルバイトさせてもらって。小清水や湧別に行きました。千歳が一番長くて正社員で9年働きました」

そのまま働き続けるつもりだったが、誰よりも現場での経験と技術を身につけた棈松は、少しずつ独立を考えるようになった。

棈松は先ず札幌にある「北海道農業担い手育成センター」に相談した。「これだけキャリアあるから、すぐ紹介してあげたいけど。んー……ヨメがいないのねって感じで。要は借金返済に身近な保証人が必要って事だと思います」

棈松が研修生活を送る牛舎。牛の世話のほか、飼料の調製などもこなす(撮影:工藤了)

独身の棈松は途方にくれた。千歳以外の北海道の役場にもかたっぱしから連絡をしてみた。「独身っていうだけで、どこも話も聞いてもらえなかったっスねえ」。未婚は北海道の新規就農希望者たちにも大きな影響を与えていた。

「人気がなくてライバルの少ない所はどうかなって思ったんです」。作物が穫れず酪農しかできない土地。中頓別は棈松にとって好都合だった。「それまでの事もあって最初に独身なんですって言ったら。まずは話を聞きましょうって言ってくれて」

役場の平中は言う。「まだ中頓別への就農希望者の数が、さほど多くないというのもありますけど。独身の方もできるだけサポートしたいと思いパートナーツアーなんかもやってます」。パートナーツアーとは酪農後継者の婚活支援にと役場が企画したツアーである。

牛舎で搾乳の準備。冬、氷点下での作業は体力と根気がいる(撮影:工藤了)

棈松の場合

研修生として中頓別で2年目を迎える棈松に、就農先はまだ見つかっていない。

「そりゃあ早く独立して就農したいですよ。もう40歳なんでこれから就農して65歳までに借金返してってなったら、返してすぐ引退になっちゃうんで。できるだけ早く借金返して収益あげていきたいです」

余分な初期投資はできない。牛舎は古くても構わない。「古くていいと言っても、使わないまま何年も放っておけば牛舎は使いものにならなくなるし。新規就農者が入れるタイミング。逃しちゃいますからね」

搾った生乳はそのままにしておくと細菌が増殖しやすい。できるだけ早くバルククーラーで冷やす(撮影:工藤了)

「タイミング」新規就農希望者との会話のなかで必ずでてくる言葉である。「離農して空いてるとこは結構あるんですよ。でも簡単には売りたくないっていうか。金額で折り合わないとこがほとんど。そんなんしてるうちに時間だけ過ぎてって」

棈松は「繋ぎ」と言われる一日中牛を牛舎に繫いでエサから排出、搾乳までをすべてこなすやり方から、牛舎内を牛が自由に動き回る「フリーストール」などあらゆる経験を積んでいるエキスパート。言ってみれば棈松は酪農における〈未就農の〉職人なのである。「どんな離農跡地でもやってく自信だけはあるんですけどねえ」

就農以外では思わぬ収穫があった。パートナーツアーが功を奏し、棈松はめでたく結婚が決まった。人生設計で足りない物は就農だけになった。

バルククーラーへ生乳が移動する途中の配管(撮影:工藤了)

ちいさな革命

時代とともに変わって行く酪農。新規就農者に門戸を開く北の町に、ささやかな革命が起きた。全校生徒52人の中頓別小学校。子どもたちの給食トレーに、今まで作られたことのない地元の生乳を使った「なかとん牛乳」が、初めて配られた。

小学校の給食で配られるのを待つ「なかとん牛乳」。中頓別町役場にて(撮影:工藤了)

中頓別で搾られる生乳(牛から搾ったままの状態)は集荷された後、よつ葉乳業の工場に運ばれて、水分を抜かれて「全粉乳」と呼ばれる粉末になる。それは缶コーヒーやチョコレートなどの多様な乳製品に形を変えて私たちへと届く。中頓別の生乳が「牛乳」になる事はない。それが通常の生乳の流通ルートだが、「酪農の町に生まれたからには自分たちの牛乳を飲んでみたい」という長年の地元の声がかたちになり、今回「牛乳」の少量生産が決まった。

牛一頭一頭の受精や分娩などのサイクルも常に頭に入れておかなくてはならない(撮影:工藤了)

18年前には69戸だった中頓別町の酪農家は、昨年11月に藤本が加わり35戸になった。藤本は言う。

「僕らは目の前にいる牛を見て搾乳して出荷する。原料を作ってるっていう気持ちかな。なんで牛乳になれなくて悲しいって事は、ないですねえ。でも出荷後についても自分たちが考えてなきゃいけない時がいつか来るのかもしれないですね。せっかく7年もかけて酪農家になったんですから」


伊勢華子(いせ・はなこ)
作家。東京都出身。学習院大学卒業、同大学院修士課程修了。著書に『健脚商売−競輪学校女子一期生24時』、『サンカクノニホン−6852の日本島物語』、『「たからもの」って何ですか』など。

[写真]
撮影:工藤了
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝

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