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「角栄ブーム」を問い直す――「天才」政治家の虚像と実像

2016/9/16(金) 11:23 配信

中高年のアイドルかと思いきや、小学生にもウケているらしい。ベストセラーの仕掛人はそう教えてくれた。タナカカクエイ。早口では言いにくい乾いた響きが今、日本中で轟いている。昭和の香り漂う脂ぎった「ザ・オヤジ」に、なぜ人は希望を見いだすのか。ブームの末路に何が待っているのか。天才政治家の残したレガシーと向き合い続ける人々に訊ね歩いた。(ノンフィクションライター・常井健一/Yahoo!ニュース編集部)

ブームの方程式「角栄+慎太郎=ベストセラー」

1972年7月、総裁選から一夜明け目白台の私邸で新聞に目を通す(写真: 読売新聞/アフロ)

2016年上半期で最もヒットした小説は、こんな一文で始まる。

<俺はいつか必ず故郷から東京に出てこの身を立てるつもりでいた。>

新潟の寒村に生まれた貧しき少年は十六で上京し、やがて総理の座に上りつめるが、絶頂期に刑事被告人へと転落し、病魔に侵されながら眠るように死んでいく。主人公の田中角栄は、波乱万丈の生涯を「俺」という一人称で赤裸々に語りつくす──。

作者の石原慎太郎は、昭和を体現したリーダーに憑依しながら豪放磊落なオモテと多感多情なウラを創作した。そして、『天才』と名付けた。

「第一稿で石原さんがつけたタイトルは『田中角栄正伝』でした。政治家というよりも人間・角栄、しかもオリジナルの心象風景を描いたのに、それではドキュメンタリーっぽくなる。社内でも議論になりましたが、ある時、社長(見城徹)が『「天才」でいいよ』と閃きました。石原さんは『俺が天才になったみたいだな』と笑っていましたが、独特のチャーミングな響きがピッタリはまりました」

編集を担当した幻冬舎常務執行役員の森下康樹は、舞台裏をそう明かす。

『天才』の編集者、森下康樹は2002年に幻冬舎に中途入社した直後から石原を担当。一貫して文芸畑を歩み、石原のエッセイ『老いてこそ人生』(文庫版)をはじめとする数多くのヒット作を手掛けてきた(撮影: 幸田大地)

今年1月末の発売時、『天才』の初版は4万部だった。5万部超で大ヒットになる時代に強気の決断ができたのはブームを意識したからではなく、森下自身が10年以上前に編集した『異形の将軍 田中角栄の生涯』(津本陽著)が10万部を超えたという成功体験があったからだ。ヒットメーカーの狙いは見事に的中し、6カ月で90万部に達した。

石原から「今、角栄について書いている」と電話があってから2カ月後には完成に近い原稿が届いたという。物語は政治闘争よりも成長過程や家族関係に比重を置いていた。

「私はもっと政局のドンパチも読みたいと思いましたが、石原さん曰く、『すでにニュースで読者に刷り込まれている話なので、もういい』と。たしかに、人間に焦点が当たって、どこにでもいそうなオジサン、実は自分と一緒だなと感情移入しやすくなる。それならと、絶頂からどん底に落ちる場面に心情描写を書き足すようお願いして、さらに陰影をつけました」

凡庸なオジサンと『天才』というタイトルとの共通項──。それを表現したのが、文化ばさみでヒゲを手入れする日常風景の表紙だった。

「総理に駆け上がる時期に、こんな無防備な姿を撮らせるなんて。角栄さんに『格好良く撮れよ』と言われて、カメラマンが喜ぶ声が写真から聞こえてきますよね。情が深くて、人たらし、浪花節の『天才』だと思いました」

読者は、下は小学生から上は90代まで。女性読者も予想より多いという。「力強く手を掲げて演説している、いかにも政治家然とした写真は表紙にあえて使いませんでした」と森下は明かす(撮影: 幸田大地)

角栄を称える『天才』に、元秘書が抱く違和感

没後四半世紀が経とうとする今、角栄を高度成長期の立役者として功績を称える書籍の出版が相次ぐ。マスコミ各社は「ナマの角栄」を見ていない若い世代をも巻き込むブームとして色めき立ち、新証言や新資料の発掘を競い合う。

中でも玄人筋の間で評判なのが、元秘書のオーラルヒストリーをまとめた『角栄のお庭番 朝賀昭』(中澤雄大著、13年刊)。朝賀(あさか)は、最盛期には140人以上の国会議員を抱えた自民党最大派閥の田中派で1000人を超える秘書団を束ねた人物だ。

前出の石原も『お庭番』にハマり、『天才』のあとがきにも参考文献として紹介したほどだった。一方、朝賀にとっての石原とは反田中の急先鋒。田中政権末期、月刊誌「文藝春秋」(74年9月号)に「君 国売り給うことなかれ――金権の虚妄を排す――」と題した論文まで発表した石原が角栄を称える小説を描いたことに対し、朝賀の心中では驚きと喜びが交錯したという。

政界きってのご意見番としても知られる朝賀。「おやじも僕も貧乏の出だから、世襲じゃない政治家にもっと頑張ってもらいたい」。角栄と同じく非世襲かつ30代で大臣になった民進党の細野豪志の後見人も務める(撮影: 幸田大地)

「おやじ(角栄)は田舎の呑百姓のせがれだから、湘南ボーイの裕次郎と違って、『俺』とは言わない。一人称は『ワシ』なんだ。若いころは『オラ』、人の上に立つようになってから『ワシ』。だからおやじをよく知る人が『天才』を読むとしっくりこないって言う。不愉快になったという元番記者もいたな。石原さんが『ワシ』で書けば実像にもっと近づいた気がするよ」

そう語る朝賀の事務所の応接間は、「角栄本」がぎっしりと詰まった本棚が並ぶ。「日本一の角栄図書館」と呼んでも過言ではない。

「昨年の23回忌を機に何冊出ているか確かめたんだ。すると、137冊。それが今年9月時点で170冊。もう追っかけきれないよ」。朝賀はそう言って照れ笑いした。

朝賀の本棚には玉石混交の角栄本が揃う。「最も多作といわれる2人の作家も僕の記憶ではおやじと会っていない。やっぱり警戒して自分の懐には入れなかったはずだ」(朝賀)(撮影: 幸田大地)

高校時代に角栄と出会ってから半世紀以上が流れた。角栄が66歳で脳梗塞に倒れる85年2月27日まで20年以上も仕えた。角栄の実像を公に語るようになったのは、前出の『お庭番』からのこと。以後、角栄を再評価する声が高まった。

「だけど虚像も実像も入り乱れて流れているんだ。だいたい、おやじと会ったことない著者が8割なんだから。おやじは何を書かれても『敵もあれが商売なんだから』と言い訳しなかった。でも、僕は長い間悶々としてきたんだ。僕みたいな『お庭番』がモノを言ってはいけないのは百も承知だが」

角栄は自身を後世に伝える書物を残さなかった。朝賀に言わせれば、それは愚痴をこぼさない角栄の性格ゆえである。一人称で書いた文献は、自民党幹事長時代の新聞連載をまとめた『私の履歴書』(66年)、そして『日本列島改造論』(72年)くらいなのだ。

言わば、田中政権の「マニフェスト」。総理大臣の座に上りつめる2週間ほど前に発売されると、たちまち100万部に迫るブームを巻き起こした

「『克雪(こくせつ)』がおやじの原点だよ。雪国に生まれた男たちは、冬は都会に出稼ぎに行かねばならないから、親子・夫婦が半年もの間、離れ離れにならなければならなかった。おやじは政治の力で豪雪地帯の貧困は解決できると信じていた。それを『改造論』にまとめたんだ」

都市に集中した工場の再配置、全国新幹線と高速道路の建設、情報通信網の充実……。地方に働く場を作ることで表日本と裏日本の格差解消を目指した。

<私は政治家として二十五年、均衡がとれた住みよい日本の実現をめざして微力をつくしてきた。私は残る自分の人生を、この仕事の総仕あげに捧げたい。>

54歳の角栄はこう結んでいる。

東京・目白の私邸には四六時中、全国各地の有力者が列をなして同書にあるような巨大開発の陳情に訪れた。それは、角栄が表舞台から去った後も続いた。人々は「日本の全ては目白で決まる」と恐れ、角栄は「闇将軍」と呼ばれた。

元秘書の朝賀は凡百の政治家との違いをこう説く。「十種競技のチャンピオンが陸上界の『キング・オブ・アスリート』なら、おやじは政界の『キング・オブ・ステーツマン』だった。演説、リーダーシップ、洞察力、先見性、実行力、政策、集金力、責任感、議員立法、あと、意外と大事なのは情け。どれか長けた政治家は今でもいるけど、全部兼ね備えた政治家はもう出てこないよ」(撮影: 幸田大地)

「おやじさん」「角さん」との出会い

今年3月、かつて角栄が事務所を構えた東京・平河町の砂防会館が閉館した。そこを舞台とした全盛期の姿を語れる現職議員も数えるほどになった。

「13年ごろからかしら、中小企業の若い社長さんたちから『田中角栄について教えてほしい』と講演を頼まれることが増えてきました」

元参院副議長の山東(さんとう)昭子は言う。

「昔から角栄という人物と会ったことがない人が悪口を言いふらすという傾向がありましたね。あの人に一度会ったら引き込まれてしまう。誰でも人間的な魅力に惚れちゃう」と元参院副議長の山東昭子。永田町に残る「教え子」は、山東以外に小沢一郎、二階俊博、中村喜四郎、石破茂だけとなった(撮影: 幸田大地)

参院史上最多の当選7回を誇る彼女の初当選は74年、32歳だった。「クイズの女王」として鳴らしていた女優の山東は、総理の角栄に自民党から参院選全国区に出馬するようスカウトされたという。若い女性タレントの擁立は、当時は奇抜なアイデアだった。

「初めて砂防の事務所に伺った際、おやじさんが開口一番、『おー、君は死んだ息子と一緒の年だな』と言われ、一瞬で引き込まれました。出馬の話になって、私は政治に詳しくないのでお断りしようとしたら『誰でも初めはアマチュアだ』と言って説得されました」

今や派閥の長を務める山東は、今年の参院選では歌手の今井絵理子を比例区に擁立し、上位当選に導いた。初陣の自分と同じ「32歳の女性タレント」を担ぐのに、あの日の角栄と似たような言葉で説得したという。

「おやじさんからは『選挙はタイミングだ』とも言われました。たしかに、3年後の参院選は、おやじさんはロッキード事件でしたから、あの時立候補しなければ、私は政治家になっていなかった」

40年前の76年7月、角栄は米ロッキード社から5億円を受け取ったとして逮捕された。かつて「今太閤」と崇めた国民は掌を返すように転落劇に喝采を送った。

衆議院予算委員会の証人喚問は、1976年2月16日に始まった。初日の証人、小佐野賢治が連発した「記憶にございません」は、一種の流行語となった(写真: 毎日新聞社/アフロ)

転落の兆候は、総理時代にあった74年の参院選にも表れていた。

「選挙の神様」と呼ばれた角栄は焦っていた。2年前の衆院選で共産党と社会党に大躍進を許し、劣勢の自民党は立党以来の与野党逆転という危機に晒されていた。

そこで、角栄は財界に要請して新人候補者に有名企業を割り当てた。有名人や大物二世を擁立し、会社の広告塔として使わせる代わりに組織的な選挙応援をさせる戦略を編み出した。当時、角栄がそのために財界からかき集めた資金は、300億円以上ともいわれる。周囲が金銭感覚を麻痺させ、札束が乱れ飛ぶ中にロッキードからの5億円も紛れ込んだ。

しかし、それでも自民党は議席を減らした。角栄は山東に日立グループやヤクルトなどの支援をつけて全国区で当選させた。しかし当選順位は5位(党内2位)と、「反田中」を掲げてボランティア選挙を展開した女性無所属候補の後塵を拝した。婦人運動家の市川房枝、なんと81歳である。

山東や前出の朝賀とは対極の立場で角栄を見続けた男が述懐する。

「全国区1位は自民党の候補だったけど、2位は市川さん、3位は青島幸男さん。角さんのやり方を『金権選挙』『企業ぐるみ選挙』と言って批判した2位、3位を合わせると400万票にもなった。自民党は財界を使って権力を握る、財界は企業献金を通して自民党を動かす。角さんの人柄というよりも、カネの力で政治を歪めるやり方に対する国民の反発が強かった。選挙後、市川さんと青島さんが経団連の土光(敏夫)会長に『やめなさい』と言いに行ったら『やめます』と応じたんだ。400万票も集めれば、田中政治も変わるんだという実感が私の原点になりました」

この発言の主は、元総理大臣の菅直人だ。市川の選挙事務所を仕切ったのは、20代の彼だった。

2011年3月の東日本大震災時の首相(在任期間2010年6月~2011年9月)。田中角栄について語るインタビューは初めてだという。衆院選に出た76年に田中政治の問題点を追及した「朝日ジャーナル」掲載の論文など自ら書いた文献の数々を掘り出し、筆者の取材に臨んだ(撮影: 岡本裕志)

その後、菅は「金権政治の打破」を掲げても3度の落選を重ねた。80年にようやく衆院議員に初当選すると、「反カク運動」と称して角栄の議員辞職を求めるお散歩デモを国会周辺で連日行い、目白の私邸前ではゲリラ的な署名運動を展開した。一方、2人のフリーライターに怪しげな金脈と女性関係を暴かれ、74年12月に総理を退いた角栄は、逮捕後も選挙に出続け、無所属の立場ながらトップで連戦連勝を果たした。

33歳で衆院に初当選した菅は、角栄の議員辞職を求める「反カク運動」を開始。「カクにくみせず、カクにたのまず、カクにもらわず」という〝非カク〟三原則を掲げた署名運動では、作家の立花隆が第一号としてサインした(撮影: 岡本裕志)

なぜ、傷だらけの角栄は新潟の有権者に選ばれ続けたのだろうか。

「衆院選では、地元に利益をもたらした政治家に対する恩義や支持が分厚いんですよ。角さんのような政治家を相手に理念的な主張を掲げたところで、善戦できたとしても結局は太刀打ちできない。結果として、田中政治を市民の力で倒すということはできなかった」

菅は総理を経験した今、こうも総括する。

「民主党政権は、政策的に間違っていなくても、政権運営は未熟だったと反省している。国会審議は与党が野党の言い分を7割も聞いて進めるんだという、角さん以来の自民党の懐の深さというか、硬軟織り交ぜて人心を掌握する術というのを愛弟子の竹下(登)さんと親しくしたころに垣間見たことがある。それが我々に足りなかった部分かもしれない」

1976年8月17日、保釈されて私邸に帰り、秘書らの出迎えを受ける。「拘置所から目白に戻られた時も、派閥の若手が検察批判で騒いでもおやじさんは愚痴一つ言わなかった。それを超越して『悪かったな。俺のせいで一万票減らしたな。次の選挙はしっかり応援するからな』と言われて、励ます側が逆に励まされてしまったんです」(山東)(写真: 毎日新聞社/アフロ)

昭和の大政治家・角栄が今に遺したもの

一方、ロッキード事件に東京地検の検事として携わった弁護士の堀田力(つとむ)は、角栄ブームに対して手厳しい。

「庶民の心をつかめる政治家がいないから、田中さんが素晴らしく見えるだけ。注意マーク付きで見る必要がありますよ」

角栄は総理時代の72年にハワイであった初の日米首脳会談の際、会談が行われるホテルへの宿泊を勧めた米側の意向に反し、後にロッキード事件で連座する政商の小佐野賢治が経営するホテルに泊まった。堀田は当時、ワシントンの日本大使館に出向していた。同盟国に外交的非礼を働いてまでも「金脈」を重んじる角栄の姿勢に疑問を抱き始めた。

1972年9月、リチャード・ニクソンとの日米首脳会談(写真: AP/アフロ)

数年後、2人は法廷で対峙することになった。公判検事となった堀田は、被告人の角栄に鬼の形相で睨みつけられたことが2度ある。その時の激しい風圧が今でも忘れられない。

「あれで怒鳴られたら、大臣だって吹っ飛んじゃう。やくざの親分も結構取り調べしてきましたが、田中さんの威嚇力にはかないません。しかし、今、田中さんが現れたら、胡散臭い政治家に見えるだけでしょう。派閥の力はカネの力という利益誘導の政治は時代に合わなくなった」

「ロッキード社から田中さんには『5億円』とは別にもっと大きなお金が流れていた。残念だけど、我々はその証拠を掘り出せなかった。軍事情報が匂う中で闇に消えてしまった」。今でも「田中有罪」を確信する堀田はそう悔やむ(撮影: 幸田大地)

前出の菅は総理時代に福島第一原発のメルトダウンを経験した。以来、原発政策の問題点を深掘りすると、基礎部分に現れたのは角栄が築いた堅牢なシステムだった。例えば、電源三法だ。

「法律ができた当初は経済効果もあったけど、カネで地域全体を買収するようなもの。原発がある地域の議員なら『事故が起きたら地元が危ない』と言わなければいけないのに、その逆で推進を叫ぶ。土建屋や地主、労働組合までも同調しちゃう。原発を作れば、再稼働すれば、カネが落ちる、票が集まるという構造を作り上げたのは角さん。道路も郵政も農業土木もみな同じ。小泉(純一郎)さんの構造改革は反田中の立場なりに田中政治の悪い部分に切り込んだよね。しかし、今またそれが復活しようとしている」

1981年、田中派幹部の後援会結成であいさつする。ロッキード事件で刑事被告人となり自民党を離党したが、派閥の領袖であり続けた。裁判は一審、二審と懲役4年の実刑判決が出たが、最高裁に上告中の1993年12月に死亡すると公訴棄却となり、決着はつかぬまま終結した(写真: 毎日新聞社/アフロ)

ここ数年の角栄ブームは、彼の言葉や人柄に焦点が絞られ、昭和への郷愁を誘ってきた。悪党として長年扱われてきた角栄は、ヒーローにされた。それが、ロッキード事件の発覚から40年を経た今年を機に真相を再検証する調査報道も目立ってきた。米国で秘密解除が相次ぐ未公開資料からは、功だけでなく罪の部分も浮かび上がってくる。

「僕はリアクションが怖いんだよ。持ち上げられた後には必ず叩き落とされる。ジェットコースターみたいにね」

朝賀は晩年の角栄が残した揮毫(きごう)を見つめながら、そう呟いた。額の中には「不動心」の三文字が墨痕鮮やかに描かれてあった。(文中敬称略)

国会議事堂に近い東京・麹町にある朝賀の個人事務所で。角栄は晩年、この言葉を好んだという(撮影: 幸田大地)


常井健一(とこい・けんいち)
1979年茨城県笠間市生まれ。旧ライブドア、朝日新聞出版を経て、オーストラリア国立大学客員研究員。2012年末からフリーに。著書に『小泉純一郎独白』『保守の肖像 自民党総裁六十年史』など。田中政権時代を知る自民党関係者の証言をまとめた「『選挙の神様』角栄が挑んだ史上最大の作戦」(月刊「文藝春秋」14年8月号)もある。

[写真]
撮影:幸田大地、岡本裕志
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝
[図版]
ラチカ

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