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黒田博樹の5万球──広島カープ・黒田が200勝を達成するまで

松谷創一郎ジャーナリスト
2012年6月25日、ニューヨーク・ヤンキース時代の黒田博樹(写真:ロイター/アフロ)

ここまでの50,453球

7月23日、広島東洋カープの黒田博樹投手が、広島での阪神タイガース戦で日米通算200勝を達成した。史上26人目、カープ出身の選手では北別府学と江夏豊以来3人目の快挙だ。

それは、なんとも黒田らしい見事なピッチングでの達成だった。7回115球を投げ、5安打3四球、無失点。幾度も先頭打者を出しランナーを背負うことが多かったものの、要所で三振を奪い取った。黒田の試合では湿りがちだった打線も、早い回から爆発し3回までで7得点をあげた。十分すぎるほどの援護点だった。

この黒田の200勝は、カープファンにとってはやはりとても感慨深い。もちろんそれは15年にメジャーリーグの高額オファーを蹴って復帰したからだ。復帰した1年半前、黒田はある重い言葉を発した。

今年2月で40歳になりますし、あと何年野球ができるか分からないですし、カープで野球をすることの方が『1球の重み』を感じれるんじゃないかなと判断しました。

(略)

僕に残された球数はそんなに残ってないと思うので、その中で自分の気持ちも含めて、ボールを投げることに関して(カープのために投げる方が)充実感がある。

出典:デイリースポーツONLINE 2015年1月16日「黒田自主トレ公開 広島復帰理由を激白」

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黒田本人も認めるように、41歳という年齢を考えると、現役生活が長くないことはファンもわかっている。「一球の重み」は、そんななかで発せられた言葉だった。いまはファンも黒田の一球一球を噛みしめながら、観戦している。

1997年の入団からちょうど20年目の今シーズン、黒田の投球数は5万球に超えた。騒がれることのないその記録は、6月17日のオリックスとの交流戦で達成された。黒田に勝ちはつかなかったものの、鈴木誠也が延長12回にサヨナラホームランを打ったあの日である。その後も黒田は投げ続け、200勝を達成したこの試合で50,453球に達した。通算200勝は、この約5万球によって積み上げた大記録だ──。

1997~2007年:低迷するカープで

黒田の200勝がファンにとって感慨深いのは、必ずしも早い段階から大活躍していたわけではないからだ。

入団してから3年ほどの黒田は、期待されながらもパッとしない成績だった。当時のカープは、後に2000本安打を達成する野村、前田、金本に、江藤と緒方を揃えたリーグ屈指の強力打線だったが、投手陣は佐々岡以外に安定した成績を続ける選手は少なかった。山内泰幸や澤崎俊和、小林幹英、ロビンソン・チェコといった若手投手は、故障に苦しみ、さほど継続的に活躍できなかった。

黒田がカープに入団したのは、ちょうどこの頃──1997年のことだ。同期入団の澤崎が12勝して新人王となった1年目、黒田も6勝9敗・防御率4.40ながらも規定投球回に達した。大卒1年目のドラフト2位としては上々のスタートだった。しかし、ここから2年間、黒田は苦しむ。2年目はわずか1勝、3年目は5勝と伸び悩んだ。この頃の黒田は、球威はあるものの、とてもコントロールが荒い投手だった。

安定してきたのは、4年目の2000年後半からだ。9月中旬以降の4試合すべてを完投し(うち1完封)、翌年につなげた。エースとして認められたのは、翌2001年からだろう。この年、山本浩二が二度目の監督に就任し、1年間ローテーションを守りきった。結果、12勝8敗・防御率3.03・190投球回と申し分のない成績を収めたのだ。さらに、リーグトップの13完投をし、「ミスター完投」と呼ばれるほどの活躍だった。

このとき、入団から5年を経過していた。早生まれの黒田は、27歳でエースとなったのである。同世代には、川上憲伸(当時中日)や上原浩治(同・巨人)がいるが、新人王を獲得した彼らは1年目からエースとしてチームを支えていた。大記録を残す投手としては、かなり遅咲きの部類に入る。

そもそも黒田は、アマチュア時代から順風満帆だったわけではない。大阪の名門・上宮高校時代は補欠で、専修大学では後にチームメイトになる1学年上の小林幹英を目標としていた。注目され始めたのは大学3年以降であり、しかも逆指名制だった当時に資金力に乏しいカープから声がかかった。さらに新人王も同期の澤崎が持っていった。大学4年生の1年間を除けば、20代後半になって誕生したエースだったのだ。

2006年6月1日、対西武ライオンズ戦での黒田博樹(インボイスSEIBUドーム)
2006年6月1日、対西武ライオンズ戦での黒田博樹(インボイスSEIBUドーム)

2001年以降の7年間、黒田は低迷するカープのなかで獅子奮迅の活躍をした。2005年には最多勝を獲得し、翌06年には最優秀防御率に輝いた。その一方でチームは、この間Aクラスになることは一度もなく、“定位置”と揶揄される5位以外は4位と最下位が1回ずつという状況だ。いまだに黒田がカープでAクラスを体験したのは、新人だった1997年だけだ。

それもあってカープファンは、2006年に黒田がフリーエージェントの権利を達成したとき、とても大きな不安を抱いた。広島市民球場での最終戦では、黒田へのメッセージを巨大な横断幕が外野席を覆い、黒田はそのなかで9回裏2アウトから登板して最後のバッターを打ち取った。この年、黒田がFA権を行使せず、国内では生涯カープを宣言したのは、この横断幕があったからだ。

そして翌2007年のシーズンオフ、黒田はFA宣言をしてアメリカに経っていった。

2008~2014年:メジャーリーグ時代

2008年にロサンゼルス・ドジャースに入団した黒田は、当初4年契約を打診されていた。しかし、それをあえて3年にしたという。契約期間を長くすることはあっても、短くする選手は異例だ。黒田はそれを「4年間もそんな苦しいことはできない」からだと説明する(※1)。

結果、ドジャース移籍してからの最初の3年間で、黒田は計28勝をあげる活躍をする。2008年、09年続けて地区優勝を果たし、リーグチャンピオンシップでも登板した。カープ時代にはいっさい優勝と縁のなかった黒田にとって、それは初めての経験だった。

4年目の2011年からは単年での契約だったが、これも本人の意向によるものだ。この年、チームは早い段階からプレーオフ進出が厳しい状況だった。そんななか、調子が良かった黒田には優勝を狙う6、7球団からトレードのオファーがあったそうだ。しかし、拒否権を行使して最後までドジャースで投げ続けた。このとき黒田は、トレードで移籍したことを想像して、こう考えたそうだ。

「そのチームで優勝して、心の底から、素直に喜べるか」(※2)

結果、黒田はトレードを選ばなかった。黒田が物事を打算抜きで考えるのは、こうしたところからかいま見られていた。この年、13勝・202投球回・防御率3.07とメジャー最高の成績を収める。そして満を持して、翌2012年にニューヨーク・ヤンキースへ移籍する。

この4年間のドジャース時代の黒田を振り返ると、最初の2年間はメジャーリーグの移動やスケジュールに慣れずに苦心していたことが結果から見て取れる。すごいのは、そこから徐々にアジャストしていき成績が向上していることだ。しかも33歳から36歳という、アスリートとしては衰えが出る年齢になって、結果が上がっている。これは驚くべきことだ。

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その勢いは、ヤンキースに入団した以降も続く。2012年は、16勝・219 2/3投球回・防御率3.32と素晴らしい結果を残す。さらに、2013、14年も11勝だったが、200投球回前後を黒田は投げている。年間32~33試合に登板し続けたのである。2年目を除き、メジャーリーグでこれを6シーズン達成したのは、素晴らしい安定感だ。しかも年齢は30代後半だ。

これがいかに驚異的な結果であるかは、他の投手と比較してもわかる。ここ20年ほどの主な投手でも、30代後半で991 2/3回も投げた投手は他にいない。次にもっとも多いのが三浦大輔(DeNA)の744 2/3回、40代後半まで現役を続けた工藤公康や山本昌でも600回台であるように、黒田は年をとるにつれてパワーアップした。

ただ、それはかなり苦しかったと黒田は振り返っている。なかでも、移動しながら中4日で先発を繰り返すことは、非常に過酷だったようだ。時差とデイゲームが重なれば、実質的に中3.5日ほどのこともあったという。30代中盤から後半にかけて、黒田は7年間もこの生活を続けたのだ。

2015年カープ復帰、そして──

2014年末、メジャーリーグでの7年目のシーズンをヤンキースで終えた黒田は、カープへの復帰を表明した。パドレスからは年俸1800万ドル(当時のレートで約21億6000万円)のオファーを受けていたと報道されていたが、それを蹴って年俸4億円+出来高のカープを選んだ。

黒田の復帰は、シーズンオフには必ずファンの間で噂になっていた。とは言え、もう7年もカープを離れてもいたので、ファンはそれほど大きな期待をしていたわけでもない。だからこそ、大きな驚きと喜びをもって受け入れられた。

この決断に、黒田は大きく迷っていたという。その逡巡の模様は、復帰した2015年4月に出版された文庫版『決めて断つ──ぶれないために大切なこと』で詳しく書かれている。

ただ、ひとつだけ言えることがある。

カープに来たことが正解かどうかは分からないけれど、それを僕自身が正解にしようとしなければならないということだ。

出典:黒田博樹『決めて断つ──ぶれないために大切なこと』(2015年/ワニ文庫)

黒田博樹『決めて断つ』(2015年/ワニ文庫)
黒田博樹『決めて断つ』(2015年/ワニ文庫)

ぶれない決断──シーズン前のこの覚悟に対し、黒田はしっかりと結果で答を出した。2015年、26試合に先発して11勝・169 2/3投球回・防御率2.55と、堂々の成績だった。今年もここまで順調に勝ち星を重ね、200勝に到達した。防御率も2点台だ。

黒田の選択が正解であったことは、本人よりもファンの誰もが認めるところだ。

こうなると、残すは優勝だけだ。2位とは11ゲーム差、このまま行けば今月中にマジックが点灯する。

メジャーでも地区優勝どまりだった黒田は、いまだにリーグ優勝を経験していない。それは、今年2000本安打を達成した新井も同様だ。昨年カープに復帰した40歳前後のこのふたりが、チームを引っ張ってきた。

ヒーローインタビューでも黒田はこう言った。

「大きな目標に向かって、あしたから頑張っていきたいと思います」

目指すはリーグ優勝、そして日本一だ。

※1……黒田博樹『決めて断つ──ぶれないために大切なこと』(2015年/ワニ文庫)

※2……同前書。

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ジャーナリスト

まつたにそういちろう/1974年生まれ、広島市出身。専門は文化社会学、社会情報学。映画、音楽、テレビ、ファッション、スポーツ、社会現象、ネットなど、文化やメディアについて執筆。著書に『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(2012年)、『SMAPはなぜ解散したのか』(2017年)、共著に『ポスト〈カワイイ〉の文化社会学』(2017年)、『文化社会学の視座』(2008年)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(2008年)など。現在、NHKラジオ第1『Nらじ』にレギュラー出演中。中央大学大学院文学研究科社会情報学専攻博士後期課程単位取得退学。 trickflesh@gmail.com

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