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波紋が広がる『空母いぶき』佐藤浩市の発言。実際に作品を観て感じること

斉藤博昭映画ジャーナリスト
5/24公開『空母いぶき』の完成披露試写会より(写真:アフロ)

『空母いぶき』に日本の内閣総理大臣役で出演した佐藤浩市が、同作の原作が連載されているビッグコミックでインタビューに答えた記事が波紋を呼んでいる。

インタビューの一部である「(総理大臣役を)最初は絶対やりたくないと思いました(笑)。いわゆる体制側の立場を演じることに対する抵抗感が、まだ僕らの世代の役者には残っているんですね」、「ストレスに弱くて、すぐにお腹を下すっていう設定にしてもらったんです」という2ヶ所が広く拡散し、「だったら最初から断ればよかったのに」「安倍首相の潰瘍性大腸炎を揶揄している」と批判が起こり、その後、件のインタビュー記事をじっくり読めば、その批判は的外れで、物語はフィクションなので実際の首相とは何ら関係ない、という反論も湧き上がる。それでも「原作の表現を変えてまで、病気を役作りのネタにした」という部分へは、なお反発が多かったりもする。

その設定はあるべきか、なくてもいいのか

そもそも大騒ぎする事象でもないかもしれないが、俳優が役作りすること、そのアプローチが政治や病気に関わることでの反発など、興味深い部分が多いので、冷静に考えてみたい。

『空母いぶき』を実際に観たうえでの意見を言うと、佐藤浩市が演じる内閣総理大臣の垂水慶一郎は、この作品のキャラクターでは4番手くらいの位置で、実質の主役は、護衛艦「いぶき」の艦長を演じる西島秀俊と、副長役の佐々木蔵之介である。しかし、日本の近海での緊急事態に、自衛隊に攻撃の命令を下す役割は垂水首相であり、多いとは言えない出演シーンのわりに強く印象に残る役どころである。

インタビューでも答えているとおり、苦渋の決断を強いられる垂水首相がトイレの個室から出てくるシーンもあり、これが役づくりの表れでもある。

では、実際に映画を観て、このシーンが必要だったかと問われると、正直、どちらでもいい気がした。極端なプレッシャーで腹を下すという設定は、あってもなくても変わらないのではないか? しかし、「なくてもいい」描写が「ある」ことも、映画の魅力であるとも思う。

非常事態に対し、さまざまな意見が巻き起こる政府内で、トップとして苦悩する佐藤浩市の姿は、彼なりの役作り=キャラクター設定によって生み出されたものだろうし、実際に思い悩む演技は鬼気迫るものであった。

フィクションであっても重なってしまう現実

そこでもうひとつの批判である、「原作を変えてまで」という点だが、原作の総理大臣の「吐くほどに悩む」という設定を、あえて「腹を下す」に自らの提案で変えたことは、これも役者としての当然の行為でもあろう。もちろんその役者のキャリアや、作品内での立ち位置、監督との関係などさまざまな要因が絡むが、原作者の要望がない部分で、演じる人物に新たな設定のアイデアを出すことは歓迎されるべきで、それを採用するのは監督の判断。責任は作り手側にあるべきである。佐藤浩市に非はない。

問題は、いくらフィクションであっても、内閣総理大臣が映画に登場すれば、誰もが「現在の」総理を重ねてしまう点だろう。しかも舞台は見るからに過去や近未来ではない。

しかしここでも、実際に作品を観れば、垂水首相と安倍首相がシンクロする可能性は少ないのではないか。映画を観ながら、「こうした事態になったとき、現実の首相なら、どうするだろう」という想像力は確かに膨らむ。とはいえ、安倍首相を皮肉ったり、揶揄したりする表現は感じられないので、あくまでも別のキャラクターという印象が強かった。

さらにもう一点は、垂水首相は潰瘍性大腸炎ではなく、その症状から軽めの過敏性腸症候群と思われること。首相の立場から、その症状を緩和するため、漢方ドリンクを持ち歩いているようだ。この点で、たしかに「同じ病気の人を揶揄している」という批判が起こるのもわかる。一方で、「お腹を下しやすい」というキャラクター設定が、そこまで批判されるべきかどうかは、人それぞれの感覚で異なるだろう。その描写を観た、同じ症状をもつ人がどう感じるか。病気の重さ/軽さで判断するべきではないが、線引きは難しいところだ。

これらの描写は、もし佐藤浩市がインタビューで語っていなければ、つまり映像でそのような行動を見せていただけなら、「同じ病気の人を揶揄」などと批判されなかったはずだ。描写としてはサラリとしたものだからだ。記事として拡散してしまったことが、大きな批判につながった気もする。インタビューで役作りを語る際の慎重さについて、考えさせられる。

俳優が自分の意思を発言すること

そして「体制側への抵抗感」というのは、佐藤浩市本人の考え方であって、それを語るのも本人の自由であり、これだけのスターであれば、ある程度、批判されることに覚悟もあったに違いない。ただ、今回のビッグコミックの記事では、「最初は絶対やりたくないと思いました(笑)」とあるように、(笑)の挿入が、発言自体を軽々しい印象にした感が否めない。

俳優が政治的メッセージを発することの是非は、あくまでもそれを聞く側が「好き/嫌い」でとらえる問題であり、たしかにそれを批判する自由も、もちろんある。俳優がメッセージを発することで嫌気がさす人、逆にそのメッセージに共感して応援したくなる人も現れる。それでいいと思うが、広告や映画などの世界では騒ぎを恐れる傾向があり、それが年々加速しているのも事実である。

今回の騒動によって今後、なんらかの政治的メッセージを感じさせる映画に出演する役者は、ますます使う言葉や、露出する記事に注意を払うことになり、その結果、当たり障りのない表現が増えていくのではないか。「どこまでなら」という基準作りは難しいが、発言の自由と、それをどう受け取るかという態度が、よりいっそう試される時代になるのだろうか。

映画ジャーナリスト

1997年にフリーとなり、映画専門のライター、インタビュアーとして活躍。おもな執筆媒体は、シネマトゥデイ、Safari、ヤングマガジン、クーリエ・ジャポン、スクリーン、キネマ旬報、映画秘宝、VOGUE、シネコンウォーカー、MOVIE WALKER PRESS、スカパー!、GQ JAPAN、 CINEMORE、BANGER!!!、劇場用パンフレットなど。日本映画ペンクラブ会員。全米の映画賞、クリティックス・チョイス・アワード(CCA)に投票する同会員。コロンビアのカルタヘナ国際映画祭、釜山国際映画祭では審査員も経験。「リリーのすべて」(早川書房刊)など翻訳も手がける。

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