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元阪神・一二三慎太選手の再挑戦 「もう一度、全力で投げてみたい」

岡本育子フリーアナウンサー、フリーライター
昨年11月末、グラウンドを借りての練習でキャッチボールをする一二三選手です。

 元阪神タイガースの一二三慎太選手(26)が、動き始めました。もう一度投げるために。自身の野球人生をピッチャーとして締めくくるために。

 高校3年からずっとつきあってきた右肩の痛みは、2度の手術を経た今もなお一二三選手を苦しめています。だけど「今は故障の痛みじゃないから。時間をかけてやっていけば投げられる」と言いました。どうしても“投げたい”のだと。それはピッチャーだからこそ味わえる、自分しかわからない感覚をもう一度、との思いです。

 今から約8年前の2010年8月22日、朝日新聞にとても印象的な見出しがありました。

  『東海大相模 仰ぎ見た頂』

  『一二三 燃え尽きた』

 前日に阪神甲子園球場で行われた、第92回全国高等学校野球選手権大会決勝の記事です。13対1という大差で東海大相模を下した興南高校の、春夏連覇で幕を閉じた大会。この見出しとともに、マウンドで立ちつくしたまま上空を仰ぎ見る一二三慎太選手(当時17歳)の写真が掲載されています。3回まで0点に抑えながら、7安打を浴びて7点を失った4回裏の写真。のちに一二三投手自身が話してくれた、この時の心境は「よう打つなあ。すごいなあ」というものでした。

安芸のブルペンで立ち投げした62球

左がプロ1年目の一二三投手。右は阪神で最後の試合となった2016年9月29日のBCリーグ・石川戦(金沢)での一二三選手。
左がプロ1年目の一二三投手。右は阪神で最後の試合となった2016年9月29日のBCリーグ・石川戦(金沢)での一二三選手。

 一二三選手が初めて右肩に痛みを覚えたのは2010年、高校3年になる直前だったそうです。しかし既にセンバツ出場が決まっていたこともあって周囲の誰にも告げず、痛くないような腕の振りを探りながら投げた結果、本来のフォームがわからなくなり苦しみました。それから数か月、サイドスローに転向して甲子園のマウンドへ戻ってきた彼が話題をさらったのは、皆さんも覚えていらっしゃるでしょう。勝ち進んで迎えた決勝は6回で降板し、準優勝投手で終わったことも。

 なお2010年夏の決勝で投げ合った2人のエースは、その年のドラフトで一二三投手が阪神に入団、興南のエース・島袋洋奨投手は中央大学を経て2014年のドラフトでソフトバンクに入りました。翌年8月のウエスタン公式戦で、野手として島袋投手と“対決”した一二三選手。その時の様子はこちらの記事でご覧ください。持ち越しとなった6月の練習試合の分も一緒にどうぞ。

 ・<一二三vs島袋 “あの夏”以来 5年ぶりの対決は持ち越し>

 ・<5年ぶりの対決が実現!島袋の直球を一二三が中前打!>

 阪神にドラフト2位で指名されて入団した一二三選手は、そんな状態だった自分を指名してもらったことが嬉しかったと言います。ただし、夢を抱いて飛び込んだプロの世界で1年目の2011年はファームの公式戦どころか、練習試合や紅白戦にも登板することなく終わりました。ブルペンに入ったのは安芸キャンプの第2クール、2月5日と6日の2度だけ。それも捕手を立たせた状態の、いわゆる立ち投げで5日が32球、6日が30球です。翌7日はできたキャッチボールも以降はそれさえなくなり、ネットピッチングのみでキャンプ終了。

これは2015年4月、遠征先での練習中にピッチングフォームを少し。何だか楽しそうでした。
これは2015年4月、遠征先での練習中にピッチングフォームを少し。何だか楽しそうでした。

 シーズン開幕後の鳴尾浜でも、ブルペン入り直前までいきながらキャンセルということが何度かあり、実現していません。「肩はとにかく痛かった。朝起きたら、また痛みとの戦いが始まるんやと思う毎日だった。肩が痛くて、もどかしかった」。一二三選手はこう当時を振り返っています。

 ルーキーイヤーのシーズンが終わる頃に野手転向が決まったので、“一二三投手”の投げる姿は結局、安芸キャンプのブルペンで行った立ち投げの計62球が、最初で最後だったのです。

野手での飛躍を阻んだアクシデント

 野手転向の打診は野球をしたい一心で快諾したものの「バッティングは好きやったから、すぐにやりたいと言いましたけど、今思えば甘かったですね」と苦笑い。でも転向2シーズン目の2013年は、もともと飛ばす力があるバッティングで結果が出始め、フレッシュオールスターゲームへの出場も決定。さらに1軍昇格の話も出ていました。そんな時に起きたアクシデントはまさに“好事魔多し”というもの。

2015年夏の鳴尾浜。左から一二三選手、同級生の中谷将大選手、1つ下の西田選手。
2015年夏の鳴尾浜。左から一二三選手、同級生の中谷将大選手、1つ下の西田選手。

 2013年7月14日のウエスタン・中日戦(鳴尾浜)。開始早々の1回、先頭・野本選手が放った打球をつかんでレフトフェンスに激突した一二三選手は、左足をフェンス下部に突っ込んでしまって立ち上がれず、担架で退場しました。診断結果は左足第3楔状骨はく離骨折。もちろんフレッシュオールスターゲームは辞退し、1軍昇格の可能性も消えたわけで、悔やんでも悔やみきれなかったはずです。

 この直前のカード、ソフトバンク3連戦(雁の巣)の2試合目で、一二三選手は2ランを含む3安打3打点と大活躍でした。次の試合から4番を打っていたし、守備における反応や走りもすごくよくなった印象です。ケガが治った頃にそれを伝えたら「実はソフトバンク戦でファウルを追いかけて、フェンスが怖くて突っ込めなかったんですよ。だから鳴尾浜では…」と。そんな伏線があったんですね。当時の平田監督も「今まで無理だった打球を捕れるようになった」と評価しながら残念がっていたのを覚えています。

 先日、退団する際に聞けなかったタイガースでの思い出を尋ねてみたら、一二三選手はこのアクシデントを挙げました。1軍のチャンスを逃したことも含めて、忘れられない出来事なのでしょう。あれがなかったら…と今でも思うことがあるくらい。“たられば”ですけどね。

投手での再起をかけた戦い

石川に練習生として入り、リハビリをしていた一二三選手。阪神ファームが練習試合に訪れ、筒井壮コーチ(右)と握手。
石川に練習生として入り、リハビリをしていた一二三選手。阪神ファームが練習試合に訪れ、筒井壮コーチ(右)と握手。

 6年目の2016年に育成契約となり、シーズン前半はBCリーグの石川へ派遣。この年の10月1日に戦力外を通告されています。「バッティングが好きやったけど、もう無理だと思ったんですよ。こんなんでトライアウトを受けても意味がないと。それで、まず肩を治したかった。手術したらボールを放れると思ったので」と退団後すぐの11月に右肩を手術。2017年はBCリーグ・石川に練習生として入団し、リハビリの日々が始まります。

 「これがまた甘かった。手術をなめていました。こんなに痛いと思わなかった。手術さえすれば痛みから解放されると…。術後の方が痛いんですよ。最初は脇から腕が離れないくらいで。3ヶ月経ってようやく腕を回せるようになった。それもゆっくり、ゆっくり」

 リハビリ中にあった阪神ファームとの練習試合で聞いた話はこちらです。→<もと阪神の同級生・一二三慎太投手と岩本輝投手>

 「夏ごろに投げ始めて、50メートルから60メートルの距離で遠投ができるようになったけど、続けるのは痛みがあるので無理でしたね。それで9月にもう一回、手術したんです」。いわゆるクリーニング術ですね。その後、キャッチボールを再開するところまでいっていた矢先に、1年前のあの騒動が起きました。報道を見て感じた「これは違う。“らしくない”」という私の第一印象が間違っていなかったと確信しています。罪状に関しても憶測や誤解が多かったですね。ただ世間を騒がせてしまったことは事実で、一二三選手は昨年1月6日に石川を自主退団しました。

「野球に気持ちを残したままでは…」

BCリーグ・福井でプレーする木下選手。よき仲間、よき理解者です。
BCリーグ・福井でプレーする木下選手。よき仲間、よき理解者です。

 その後どうしているか気になっていたものの様子がわからず、昨夏に連絡をしたら元気に働いていると言っていたので一安心。そして11月に京セラドームの社会人日本選手権でBCリーグ・福井の木下裕揮(きのしたゆうき)選手に偶然出会ったところから、今回の取材へとつながります。

 以前の記事でも何度か書きましたが、木下選手は一二三選手と同学年。もともと中学時代からの顔見知りで、八尾フレンドの後輩である西田直斗さんが阪神に入団したことをきっかけに、より近くなった2人はシーズンオフの自主トレも一緒にやる仲です。

今季から石川でプレーする岡本選手。小虎ファンの方は顔を覚えておいてくださいね!
今季から石川でプレーする岡本選手。小虎ファンの方は顔を覚えておいてくださいね!
西田さん(左)がトスを上げ、岡本選手は撮影担当?(右)。八尾フレンドの同級生コンビです。
西田さん(左)がトスを上げ、岡本選手は撮影担当?(右)。八尾フレンドの同級生コンビです。

 沖縄から戻り、石川ミリオンスターズも退団した一二三選手は「木下が、おいでやと言ってくれて」一歩を踏み出します。「最初はバイトをしながら、トレーニングしたりしていました。投げることに関してはキャッチボールくらいですね。で、そのうち漠然と『野球やりたいなあ』『やるなら、そろそろ本格的に動かんと』って思うようになった」

 そんな息子の心情を、そばにいたお父さんが気づかないはずありません。ある時、お父さんは息子に言い放ちました。「野球に気持ちを残したまま仕事するなんて、もってのほかや!どっちかにしろ!」。周囲の人たちもしかり。自覚はなくてもモヤモヤと未練を抱えていた一二三選手の背中を、ぐいっと押してくれたのです。

 アルバイトを辞め、練習に専念すると決めたのは昨年10月。木下選手とともに本格的な練習ができる場所を探すところから始めました。その結果、見つけたのは室内でバッティングができる施設。しかも傾斜のあるマウンドが1つ設置されているのでピッチング可能です。また天気がよさそうな日は人数を集め、野球用のグラウンドを借りて練習します。「基本的に練習は毎日」だそうで、その費用はすべて彼らの自費。一二三選手は「貯金を崩して、あとは助けてもらって何とか」と言っていました。

大切で、愉快な仲間たち

 11月下旬から3度、そんな練習風景を見学させてもらい、話も聞いています。その前に頼もしい仲間たちのプロフィールをどうぞ。

練習後の1枚。左から一二三選手、いじられ役の木下選手、岡本選手、西田さん。
練習後の1枚。左から一二三選手、いじられ役の木下選手、岡本選手、西田さん。

木下裕揮外野手(26) 八尾フレンド~報徳学園高~東北福祉大~BCL・福井

岡本仁捕手(24) 八尾フレンド~PL学園高~立正大~四国IL・愛媛~香川~BCL・石川

澤端侑内野手(21) 大商大堺高~深谷組~BCL・福井

西和哉さん(25) 北陸高~龍谷大~BCL・福井(昨季で退団)

瀬田翔平さん(25) PL学園で岡本選手の同級生

 強力な助っ人・西田直斗さん(25) 八尾フレンド~大阪桐蔭高~阪神

 大阪桐蔭、報徳学園、PL学園、東海大相模って…すごいOBメンバーですね。もちろん中学時代に所属した八尾フレンド(現在は大阪八尾ボーイズ)と、一二三選手の“ジュニホ”ことジュニアホークス(現在は大阪南海ボーイズ)も、これまた名門チームです。引退しても毎回手伝いに来てくれる西田さんに「ほんまに野球が好きなんやなあ」とつぶやく一二三選手でしたが、そんな一二三選手を見て周囲の仲間たちも口を揃えます。「やっぱり野球が好きなんですよ、慎太は」と。

初めて生で見たピッチング!

11月末、屋外でキャッチボールを行う一二三選手。暖かい日でした。
11月末、屋外でキャッチボールを行う一二三選手。暖かい日でした。

 最初に見学させてもらったのは11月下旬、室内練習場でした。2人のほかに八尾フレンド出身の岡本仁(おかもとひとし)選手が参加。西田さんとは同い年でとても仲良しです。岡本選手は四国アイランドリーグから今度はBCリーグ・石川に入団が決まったため、一二三選手から話も聞いていましたよ。しかもキャッチャーなので、さらにありがたいですね。この日は途中から西田さんも合流してノックを打ったり、ティーバッティングのトスを上げたり。

 一二三選手の投げる姿も見られて感動です。よく考えたら私は距離のあるキャッチボールくらいしか生で見ていなかったような気がします。この日はマウンドの傾斜を使わず、その前から少し投げただけなんですけど、いや~オーラがありますね。岡本選手も「傾斜を使ってなくても、真っすぐの強さがある」と話していました。この時で本格的に練習を始めて1か月くらい、ずっと受けていて上向いてくるのがわかるのでしょう。

わざわざ福井から参戦の西さん。ノック中です。
わざわざ福井から参戦の西さん。ノック中です。
こちらは瀬田さん。お仕事がある中、かけつけてノックを。
こちらは瀬田さん。お仕事がある中、かけつけてノックを。
BCリーグ・福井の澤端選手。まだ21歳です。
BCリーグ・福井の澤端選手。まだ21歳です。

 2度目は試合も可能なグラウンドを借りての練習でした。前回のメンバーに加え、昨季でBCリーグ・福井を退団した西和哉(にしかずや)さん、ことしが福井2年目となる澤端侑(さわばたあつむ)選手、そして岡本さんとPL学園で同級生だった瀬田翔平(せたしょうへい)さんが参加。ノックを打つ人、受ける人、バッティングをする人、投げる人、みんなで協力し合って練習が進みます。一二三選手はキャッチボールから遠投に入って、最長70メートルくらいの距離から投げました。相手をした岡本選手は「やっぱり外でやると腕が振れていますね」と楽しげ。

 またランニングメニューで、一二三選手が10メートルずつマーキングをしたところを2人か3人で同時に走る(最初に10メートル走って戻り、次は20メートルまで行って戻り、それを繰り返すパターンと、先に50メートル走って戻り、次は40メートル、30メートルと減らしていく逆のパターンを自分で選択)という、タイガース時代にもやっていたものを取り入れていました。最後は全員バテバテ!

 12月に伺ったのは、最初と同じ室内練習場です。一二三選手、木下選手、岡本選手、澤端選手、そして例によって西田さんも途中から参加。この日はサッカーボールが登場し、ウォーミングアップ代わりに2対2でフットサルをして、それだけでもう汗だくになっています。一二三選手がマウンドの傾斜を使ってのピッチングを行いました。スパイクも履いていたと思います。また前進ですね。

 そう言うと「いや~まだですよ。傾斜を使ったから次は、というものでもないんで。ちょっとずつ、ちょっとずつです」と一二三選手にたしなめられました。なるほど。阪神での1年目、マスコミ陣の「そろそろブルペン入りですか?」という質問が、決して急かす意味ではなかったとしても、18歳の若き右腕を追い込んだのだろうか。この時ふと思いました。本人はそんなこと口にしませんけど。

ともに励ましあっていきたい

12月、室内練習場のマウンドでピッチングをする一二三選手。力感がありました。
12月、室内練習場のマウンドでピッチングをする一二三選手。力感がありました。

 ではここで、木下選手の話をご紹介しましょう。同学年の一二三選手のことは「中学の時から知ってはいましたけど、西田が阪神に入って、それをきっかけに話すようになりました。島本も中学から知っていますよ。でも2人とも高校時代はちょっとしゃべった程度で。西田つながりですね。慎太は野球に対して、すごく真面目。それと面倒見がいいですね。年下の子が慕う」と話しています。

 今回の挑戦には賛成?「ピッチャーでプロに入ったから、やっぱりピッチャーをやりたい思いがあったんでしょう。未練というか。そのために手術もしたし。野球が好きやし、野球ができないかもしれない状況になって、でも諦められなくて。ここで辞めたら一生悔いが残る。野球ができる環境は日本だけじゃないから。仕事も大切やけど、今一番やらなあかんことはこれやと集中してできているので、そこはよかったかなと思います」

よき仲間たちと助け合い、競い合って歩を進めてほしいですね。
よき仲間たちと助け合い、競い合って歩を進めてほしいですね。

 木下選手の「おいで」で踏み出したわけですからね。そこではまだ“もう一度投げる”という目標はなかったかもしれませんが、最初の一歩がきっかけだったはず。ともに練習する仲間がいて助かる?と一二三選手に聞いたら「そうですね。野球は1人でできないので。グラウンドが使えたら、走ることも大きくできてトレーニングになる」と言っていました。

 実は、木下選手も同じように肩の手術を何度かしています。その点では一二三選手の先輩。「野球が好きっていうのはもちろんあります。手術をしないで辞めることも少なからず考えましたが、そこで辞めていたら悔いが残っていただろうと。今思うと続けていてよかったと思います」

スイッチヒッターの木下選手(手前)に左打ちをアドバイスする1つ後輩の西田さん。
スイッチヒッターの木下選手(手前)に左打ちをアドバイスする1つ後輩の西田さん。

 みんな悔いとの戦いなんですね。「悔いは人生の中で絶対、解消されることはないと思います。野球と一緒で、いかにいい打者、いい投手になれるか、それにどれだけ近づけるか。解消されることはないけど、いかに悔いを少なくできるかだと思う。自分自身、“もっと出来る、やれる”と思って自分の力を試したいです!」。力強い宣言でした。どこまでいこうと、億をもらうプレーヤーになったとて何らかの後悔はつきまとうでしょうね。「それが野球なのか、仕事なのか、生活なのか。人それぞれだと思います」

 そして「慎太とは、また違う場所で、ともに励まし合って頑張っていこうと思っています」と締めくくってくれました。一二三選手もこれぐらいしゃべってくれると助かるのに、と言ったら「あいつは意外にシャイなんで(笑)」と木下選手。はい。相変わらず面と向かって写真は撮らせてくれません。

「たとえ失敗に終わろうとも」

 最初の手術から2年が経ち「故障は治っているんですよ。2度目の手術後の感触は悪くないし。ただ、ずっと投げていなかったから今はやっぱり痛い」そうです。ピッチングは原則として毎日、マウンドの傾斜を使って投げたり、スパイクを履いて投げたり。でも、まずは肩を治すことだと一二三選手は強調しました。

一二三選手が11月の練習中に着ていたTシャツ。そう!「人生これからだ」です。
一二三選手が11月の練習中に着ていたTシャツ。そう!「人生これからだ」です。
少しずつ、一歩ずつ、その夢を取り戻してくれたらと願います。
少しずつ、一歩ずつ、その夢を取り戻してくれたらと願います。

 「そのために時間が必要なんです。それと練習だけでなく、ケアも大切にしていかないと。肩はガチガチに固まっている状態なので、時間をかけて頑張ります。無理して肩を痛めたら最悪。そこは気を使っていかないと。無茶しても意味がないので」

 やがて肩の痛みがやわらぎ、本格的なピッチングができるようになったら、その先はどうするのか?と尋ねたら「どういう形でというのは、まだ考えていない」と答えました。「不安はありますよ、もちろん。でもやるしかない。リハビリしていく過程でダメになっても、やめるのは簡単。やれるところまでやります。やらんと始まらんので」。そうですね、始めなければ事は起きないし、何も変わらないですもんね。楽しみ?「はい。だけど気持ちに肩がついていっていない」

 なお、今のところは“立ち投げ”がほとんどで、おそらくフォームが固まるまではキャッチャーを座らせずにいくみたいです。爪が割れたり血豆ができたりして投げられない時期もあったと言いますが、球を受けている岡本選手によれば「球速は日に日に増していて、変化球の精度も上がっている」とのこと。球数は一日に30~50球ほどだと聞きました。

ピッチング練習を終えて、いい表情を見せる一二三選手。
ピッチング練習を終えて、いい表情を見せる一二三選手。

 高校3年の春から今まで、肩が痛くなかったことはある?「一日もないです」。静かに、きっぱりと言い切った一二三選手。手術後の痛みと闘い、先行きの不安を抱えてでも投げることを選んだのはなぜか。そんな問いに一二三選手は答えます。

 「このままでは終われない。やりきりたかった」

 「思いきり全力で投げてみたいんですよ。何の不安もなく投げてみたい。それができたら、この挑戦が失敗に終わってもいい」

 一二三選手がどうしても取り戻したいのは、腕を振って投げたボールが指先を離れる瞬間の、あの感覚です。いつか願いがかないますように。

   <掲載写真は筆者撮影>

フリーアナウンサー、フリーライター

兵庫県加古川市出身。MBSラジオのプロ野球ナイター中継や『太田幸司のスポーツナウ』など、スポーツ番組にレギュラー出演したことが縁で阪神タイガースと関わって約40年。GAORAのウエスタンリーグ中継では実況にも挑戦。それからタイガースのファームを取材するようになり、はや30年が経ちました。2005年からスポニチのウェブサイトで連載していた『岡本育子の小虎日記』を新装開店。「ファームの母」と言われて数十年、母ではもう厚かましい年齢になってしまいましたが…1軍で活躍する選手の“小虎時代”や、これから1軍を目指す若虎、さらには退団後の元小虎たちの近況などもお伝えします。まだまだ母のつもりで!

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