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超厳戒態勢の北朝鮮フィギュアペアのプライベートに接触成功!四大陸選手権で知った日本ファンとの秘話

金明昱スポーツライター
左からコーチのキム・ヒョンソン氏、キムとリョムのペア、コーチのリ氏(筆者撮影)

 かの国の選手たちの声を聞こうにも、そこはまともな取材ができる現場ではなかった。

 24日から27日まで台北で開催された四大陸フィギュアスケート選手権。

 現地で追っていたのは平昌五輪出場が決まったあと、同大会に出場した北朝鮮ペアのリョム・テオク選手とキム・ジュシク選手なのだが、この2人を追うメディアが殺到したため、厳戒態勢で取材規制がはられていた。

 地元台湾や日本メディアも含む海外メディアが、彼らの一挙手一投足を追う理由は、北朝鮮選手団の平昌五輪参加が決まり、韓国入りする22人の選手たちの中では、もっとも早く公の場に姿を見せるからでもあった。

 「彼らの素性が知りたい」――。どのメディアもそんな心境でいたはずだ。かくいう私も、どこかのタイミングで彼らに話をしっかり聞きたいと思っていた。

 もっとも、リョムとキムのペアのことは、昨年2月の札幌冬季アジア大会である程度、明らかになっていた。

 同大会で3位に入り、日本のフィギュアファンの前でその存在を知らしめた。試合後は日本のメディアにもちゃんと受け答えしていたという。

 ただ、当時はまだ五輪出場が不透明で、そこまで注目されていなかったこともあり、国際大会出場経験が少ない2人には、まだ謎が多いままだった。

大会期間中、北朝鮮選手はしっかりと警備に守られ、声をかけるのも難しかった(筆者撮影)
大会期間中、北朝鮮選手はしっかりと警備に守られ、声をかけるのも難しかった(筆者撮影)

 北朝鮮選手団の平昌五輪参加が決まり、連日、アイスホッケー選手団の韓国入りや「三池淵管弦楽団」の公演準備で韓国北東部の江陵を訪れたヒョン・ソンウォル団長がニュースをにぎわせているが、平昌五輪前にリョム選手とキム選手のペアの素性を知るには、ここが最後のチャンスだった。

 そんな彼らへのアプローチを試みたが、大会期間中はほぼコメントを残しておらず、アイスアリーナで少し話す程度でとどまっていた。

 選手とコーチの4人は毎日、ホテルから会場まで徒歩で向かっていたが、メディアの問いかけにも無言を貫いた。

 理由は「選手たちを試合に集中させるため」と女性のキム・ヒョンソンコーチは言った。一方で、「大会がすべて終わったら、質問にも しっかり答えます」とも話してくれていた。

北朝鮮ペアの四大陸メダルは初

 北朝鮮ペアは、ショートプログラム(SP)では会心の演技。力強くガッツポーズを見せ、得点を待つキス・アンド・クライでは立ち上がって、笑顔で歓声に応えていた。

 フリーではジャンプでミスしたものの、キム選手がリョム選手を持ち上げるリフトや息のそろった演技で、合計184・98と自己ベストを更新して3位に入った。同大会でのメダルは同国初のこと。

 もっとも驚いたのは、観客席からたくさんの花束が投げ込まれていたことだった。

 演技を終えた二人が手を振ると「テオクー!」と女性選手への声も聞かれ、熱烈なファンがいることにも驚かされた。

 大会が終わり、会見に臨んだ2人はにこやかな笑顔を見せて、記者たちの質問にしっかりと答えていたという。

 平昌五輪出場が決まったことについて聞かれると、キム選手は「自分の演技をするが第一目標。メダルのことはそこまで意識していません」と答え、リョム選手は「1試合1試合を集中することが大切で、五輪のことについては特に深く考えていませんでした。どんな試合でも自分の技術を発揮することが大事だと考えています」と語っていた。

昨年2月の札幌冬季アジア大会に続き、四大陸選手権でも3位に入った北朝鮮ペア(写真:ロイター/アフロ)
昨年2月の札幌冬季アジア大会に続き、四大陸選手権でも3位に入った北朝鮮ペア(写真:ロイター/アフロ)

 会見では他にもいろいろな質問が飛んだというが、彼らの素性を知るにはまだ情報が足りない。

 大会が終了したあとに話を聞くチャンスがないかと、選手たちが宿泊するホテルで待っていた。

 ちょうど、昼食をとるタイミングで選手、コーチと接触することに成功した。

 20日に現地入りして、ここに至るまでに実に7日もかかったが、すべての日程を終了したことも大いに関係していた。

 今までメディアの取材に応じなかったのがウソのように、いろんな話をしてくれ、写真撮影にも快く応じてくれた。メダルを獲得し、すべての日程を終えた開放感から、選手とコーチにも安堵感が漂っていた。

世界選手権王者に憧れた

 リョム選手とキム選手と握手を交わし「3位、おめでとうございます」と伝えると「メダルを取れて本当にうれしいです。五輪でもベストを尽くします」と口をそろえた。

 リョム選手は8歳から、キム選手は9歳からフィギュアスケートを始め、ペアを組んだのは2015年からだ。

 翌16年8月の「アジアン・オープン・フィギュアスケート・トロフィー」(フィリピン)、同11月の「2016年メラノカップ」(イタリア)の両大会で金メダルを獲得するなど、メキメキと頭角を現し、北朝鮮国内では期待の新星として注目を浴びた。

 彼らは「毎日、平壌市内にあるスケートリンクの『氷上館(ピンサングァン)』で、スケートリンクでは3時間、フィジカルトレーニングは4時間ほど、みっちり練習を行っています」という。

 キム選手が語る。

「私たちの練習環境は十分に整えられていて、練習時間は多いときもあれば少ないときもあります。コンディションに合わせて練習量は調整しています」

 彼らのペアとしての演技のレベルが上がったのは、向上心の強さにある。

 今夏、カナダで約2カ月、2015、16年の世界選手権で優勝したデュハメル・ラドフォードペアを指導しているブルーノ・マーコットコーチから演技指導を受け、レベルアップを図った。

 台湾現地で出会った日本のフィギュア担当記者の話によると「北朝鮮選手の2人は、フィギュアスケート界では有名なデュハメル、ラドフォードペアに憧れていたそうです。選手はもっとうまくなりたいとの向上心が強いと思います。ある大会でマーコットコーチに、北朝鮮のキムコーチが直接、指導のお願いをしたと聞きました」。

 キム選手も「カナダで有名なコーチにレベルの高い指導を受け、(四大陸選手権で)3位に入ることができました」とその意義が大きかったことを語っていた。

「フィギュアがもっとうまくなりたい」と語るキム・ジュシク選手(右)とリョム・テオク選手(筆者撮影)。このあと、筆者と一緒にスマホでの撮影にも応じてくれた
「フィギュアがもっとうまくなりたい」と語るキム・ジュシク選手(右)とリョム・テオク選手(筆者撮影)。このあと、筆者と一緒にスマホでの撮影にも応じてくれた

第1回札幌冬季大会で4位の北朝鮮コーチ

 マーコットコーチに北朝鮮選手の指導のお願いをしたキムコーチは、元フィギュアスケート選手で、日本でも試合をしたことがあった。

「私は1986年に札幌で開催された第1回冬季アジア大会のペアに出場したんです。16歳のときです。足首をケガしたのですが、それでも演技をして4位に入ったんですよ」

 ちなみに同大会のペア金メダルは北朝鮮の選手(ナム・ヘヨン、キム・ヒョクソン)だった。

「国内ではフィギュアスケートをする選手はそこまで多くはありませんが、3歳くらいから始める子どももいます。私も演技指導や曲の選定、構成を考えますが、国際大会の経験が少ない。やはりメダルを取るためには、世界的なコーチから学ぶ必要があったのです」(キムコーチ)

 私が2003年の青森冬季アジア大会で取材した北朝鮮のフィギュア女子シングル選手は、北朝鮮国内の歌を使っての演技で、それこそ世界の潮流とかけ離れたものだったと記憶している。

 だが、リョム、キムペアはショートプログラムで、ビートルズの「A Day in the Life(ア・デイ・イン・ザ・ライフ)」(作詞・作曲:ジョン・レノン、ポール・マッカートニー)を使って演技を披露。演技の構成やスケートの技術、音楽の選定など、すでに国際大会で十分にメダルが期待されるほど、洗練されていると感じた。

日本ファンからの手紙

 キムコーチが最後にこんなエピソードを教えてくれた。

「去年の2月に札幌アジア大会で3位に入ったこともあって、日本のファンが本当にたくさん応援してくれています。日本のスケートファンの熱烈さには感動を覚えるほどです。特に今回も花束をスケートリンクに投げてくれていたのは日本のファンで、たまに手紙もあったりします。ある日本のファンの方が英語で書いてくださった手紙には、『私たちがあなたの花になります』という内容がありました。純粋に私たちを応援してくれる日本の熱烈なファンの存在は本当にありがたいです」

 確かに日本はフィギュアスケート人気が高い。男子の羽生結弦や宇野昌磨などを追いかける熱狂的なファンはたくさんいるが、北朝鮮選手を応援する熱気は日本のファンが運んできたものだとキムコーチは実感していた。

 それに今回の四大陸選手権のエキシビジョンで北朝鮮ペアが披露した演技のあとの、拍手喝采と声援は、国の垣根を越えたフィギュアスケートというスポーツが持つ力だと感じた。

 素晴らしい演技には拍手を送る――。平昌五輪でも人々の心に胸を打つシーンが再び見られるに違いない。

スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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