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無呼吸潜水は人類の「脾臓」を増大させる

石田雅彦科学ジャーナリスト、編集者
(写真:アフロ)

 環境は生物の生理や形態に影響を与え、時として突然変異として子孫にも残る。獲得形質は遺伝しないというドグマは基本的には正しいが部分的に否定されつつあり、環境影響による身体的な変化が世代を超えるかどうか議論が分かれるところだ。最近、無呼吸潜水で驚異的な能力を発揮する海洋民族に共通の身体的遺伝的な特徴があるという論文が出た。

無呼吸潜水の可能性

 チベットやアンデスなどの標高3000メートルを超えるような高地に代々住んでいる人々は、平地の人々よりも血流量が増え、ヘモグロビン濃度が高いなど、低酸素環境に適応した生理を持つ。こうした生理は、自然選択や遺伝的な適応のために子孫へと伝えられた可能性が示唆されている(※1)。

 同じような特異な環境として挙げられるのは水中だ。

 当然だが人類は水中で息ができない。水中で呼吸をせずにどれだけ深く、あるいは遠くへ泳ぐことができるかを競う競技がフリーダイビングで、映画『グラン・ブルー(Le Grand Bleu)』(1988年)ではジャック・マイヨール(Jacques Mayol)とエンゾ・マイオルカ(Enzo Maiorca)という二人の実在のフリーダイビング競技者を描いた。

 人類が無呼吸でいられるのは10分程度、水中深度の限界は200メートル程度といわれているが、こうした記録は徐々に更新されているようだ(※2)。もちろん鍛錬と訓練を積んだ者にとってもフリーダイビングは危険な競技だが、それとは別にして人類は高地環境と同じように水中環境にも適応できるのだろうか。

 韓国チェジュ島の海女を調べた研究(※3)では、6メートルの深度へ潜った場合に脾臓の収縮とヘモグロビン濃度の上昇がみられたという。

 フィリピン、マレーシア、インドネシアにかけ、国境を越えて移動するサマ・バジャウ(Sama-Bajau)族という海洋民族がいるが、彼らは子どもの頃から海の中へ潜り、魚介類などを捕って生活してきた。サマ・バジャウ族は深度70メートルの海中までごく普通に潜り、海中に13分間も潜水し続けることができるようだ。

 サマ・バジャウ族の子どもを調べた過去の研究(※4)によれば、彼らの角膜の屈折力や瞳孔は水中での視認に適するように変化していたことがわかった。ただ、これは訓練によるものではないかと考えられている。

海棲哺乳類のような脾臓を持つ人々

 サマ・バジャウ族の生理について調べた最新の研究(※5)によれば、脾臓が遺伝的に大きくなっていることがわかったという。これはデンマークのコペンハーゲン大学などの研究者が米国の医学雑誌『Cell』に掲載した論文で、サマ・バジャウの人々の協力を得て遺伝子サンプルを提供してもらい、超音波スキャン(エコー検査)によって脾臓の状態を分析した。

 すると、同じ地域に住むダイビングをほとんどしないサルアン(Saluan)族に比べ、サマ・バジャウ族の脾臓は約50%も大きかったという。この傾向は、あまり海に入らないサマ・バジャウ族の人にもみられた。

 研究者は、甲状腺ホルモン分泌のコントロールに関係するPDE10Aという遺伝子の発現が、サルアン族では低く、サマ・バジャウ族では増加していることを示しているが、マウスでの実験で甲状腺ホルモンの増減と脾臓の大きさに関係があることはわかっている。

 アザラシやアシカなど海棲哺乳類の脾臓は大きくなっている。脾臓という臓器の役割は、人類の場合だと免疫機能や出生までの造血機能、そして血液の貯蔵といったものがある。身体の組織が急に酸素を求めてきた際、脾臓に蓄えられた血液を送り込んで酸素を補給することもあるようだ。

 そのため、深度1000メートルへ潜り1時間以上も潜水する海棲哺乳類の脾臓は、最大で体重の4〜14%を占める(※6)。人類の脾臓の重さは、血液の流量によって変わるが体重比で0.1〜0.5%ほどでしかない。潜水時には身体へ酸素を送るために血液を放出した脾臓は収縮するが、海棲哺乳類ではそもそも脾臓が大量の血液を溜め込み、その収縮の度合いも少ない。

 人類の祖先はかつて水中で暮らしていたという、かなり眉唾な仮説(※7)もあるが、海棲哺乳類では脾臓を取り巻く動静脈の仕組みが人類とは異なっているようだ(※8)。我々人類もサマ・バジャウ族の人々のような海中環境が何万年も続けば、海棲哺乳類に似た生理機能を獲得するようになるかもしれない。

※1:Cynthia M. Beall, et al., "Hemoglobin Concentration of High-Altitude Tibetans and Bolivian Aymara." American Journal of Physical Anthropology, Vol.106, 385-400, 1998

※2:Peter Lindholm, et al., "The physiology and pathophysiology of human breath-hold diving." Journal of Applied Physiology, Vol.106, Issue1, 284-292, 2009

※3:W. E. Hurford, et al., "Splenic contraction during breath-hold diving in the Korean ama." Journal of Applied Physiology, Vol.69, Issue3, 932-936, 1990

※4:Anna Gislen, et al., "Superior Underwater Vision in a Human Population of Sea Gypsies." Current Biology, Vol.13, Issue10, 833-836, 2003

※5:Melissa A. Ilardo, et al., "Physiological and Genetic Adaptations to Diving in Sea Nomads." Cell, Vol.173, Issue3, 569-580, 2018

※6:Arnaud Cabanac, et al., "Volume capacity and contraction control of the seal spleen." Journal of Applied Physiology, Vol.82, Issue6, 1989-1994, 1997

※7-1:A Hardy, "Was there a Homo aquaticus." Zenith, 1977

※7-2:S C. Cunnane, "The Aquatic Ape Theory reconsidered." Medical Hypotheses, Vol.6, Issue1, 49-58, 1980

※8:Arnaud J. Cabanac, et al., "The structure and blood-storing function of the spleen of the hooded seal (Cystophora cristata)." Journal of Zoology, Vol.248, Issue1, 75-81, 1999

科学ジャーナリスト、編集者

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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