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BTSはなぜ「原爆Tシャツ」を着たのか?原爆投下降伏論のウソ

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
問題視されたBTSメンバーの「原爆Tシャツ」(写真:Lee Jae-Won/アフロ)

【1】原爆投下で日本が降伏した、のウソ

広島市平和記念公園(画像素材、足成。撮影者・いしだひでヲ氏)
広島市平和記念公園(画像素材、足成。撮影者・いしだひでヲ氏)

 韓国の音楽ユニットBTS(防弾少年団)のメンバーのひとりが、原爆投下直後のキノコ雲の写真(長崎)と、朝鮮半島が日本の支配から解放された写真を並列したプリントTシャツを来ていた事実が内外で大きな波紋を呼んでいる。結果、BTSが登場するはずだった音楽番組への出演が軒並みキャンセルされるなど、その波紋はとどまるところを知らない。

 なぜBTSは原爆投下直後のキノコ雲と、植民地解放の写真を並列したTシャツを着たのか。答えは明瞭で、どんな意図があるにせよ、「広島・長崎という二発の原爆が日本を降伏させ、朝鮮半島の解放につながった」という歴史認識が、広く韓国世論一般で定着しているからだ。

 この、「原爆によって日本が降伏した」という歴史認識は、韓国ばかりでは無く日本の中にも存在する。そして当の原爆を投下したアメリカ国内でも、「原爆によって日本が降伏した」というのは、広く定着している歴史の通念である。

 しかし、「原爆によって日本が降伏した」という歴史認識は、原爆投下を何が何でも正当化したいアメリカが、戦後に広めたプロパガンダの一種であり、正しい歴史認識とは言いがたい。日本が先の戦争に降伏した直接要因は、二発の原爆投下では無く1945年8月9日に行なわれた「ソ連対日参戦」である。

 本稿では、1945年8月9日以前、中立関係にあったソビエトへ、いかに日本が和平工作の望みを賭けていたのか。そしてそれが同日裏切られたショックはどれほど大きかったのか、をまず考察する。そして広島・長崎の原爆の凄惨な現実を、当時の戦争指導者やマスメディアがどのように報じ、どのように受け止めていたかをも考察する。

 広島・長崎への原爆投下とその被害は、私達は現在、様々な媒体でその余りにも酷い状況を知るに至っている。しかし、原爆が投下された1945年8月初旬、インターネットもテレビカメラ中継も無い日本の戦争指導者は、原爆被害を軽視し、あくまで本土決戦完遂の意思を貫き通した。

 日本降伏の決定打はソ連対日参戦であり、そしてまたその事実は、二発の原爆投下が「全く必要の無い殺戮であった」事実を私達に問いかけているのである。本稿を読めば、BTSの「原爆Tシャツ」の背景にある「原爆によって日本が降伏した」という歴史認識が、いかに事実とかけ離れた虚構であるかがおわかり頂けるはずだ。

【2】本土決戦のためのソ連中立維持

 1941年12月8日、日本機動部隊の真珠湾奇襲により、第二次大戦は世界規模に拡大した。遡ること1941年4月、日本とソ連は「日ソ中立条約」を締結。5年間の相互不可侵条約体制で後顧の憂いを絶った日本は、南方作戦に代表される「南進」に踏み切ったのである。

 しかし1943年にイタリアが枢軸から脱落、1945年5月にはドイツが無条件降伏すると、枢軸で残るのは日本ただ一国となり、戦局の行方は誰が観ても絶望的であった。ソビエトは1945年2月、クリミア半島の保養地・ヤルタで連合国首脳と会談を開いた(米英ソ三巨頭首脳会議)。このとき取り決められたのは「ドイツ降伏後、三ヶ月以内にソビエトは日本に宣戦布告する」という内容であった。所謂「ヤルタの密約」である。

 が、日本側はこの「ヤルタの密約」を全く知らなかった。1945年4月1日、米軍作戦部隊50万人が沖縄に殺到。同5月末には首里の日本軍司令部が陥落し、同6月23日、摩文仁に追い詰められた日本第32軍は玉砕した。このような絶望的な状況の中、大本営と政府は、「本土決戦」の準備とその完遂にますます意を堅くした。

 日米の戦いはガダルカナル、サイパン、沖縄、硫黄島など島嶼を巡る争いであった。1945年の段階で、満州を含む大陸に200万人以上の兵力を有する陸軍は、「日米の本格的会戦はまだ行われて居ない」と主張して、「本土決戦は、最初の一回だけなら必ず勝てる。その勝機を利用して我が方に有利な講和条件を見いだす」という理屈に傾いていた。これを「一撃講和論」と呼ぶ。

 そのためには、ソビエトの対日参戦だけは絶対に防止しなければならない。ソビエトに参戦されると、防備が手薄な満州・朝鮮が失陥する事になり、本土決戦の目算が全てご破算になる。つまり「本土決戦」の最低必要条件は、ソ連が中立状態を維持してくれること。この一点に尽きたのである。

【3】日本降伏の決定打となったソ連参戦

極東ロシア・ウラジオストク市の第二次大戦記念碑(写真素材、photoAC。撮影・ぱりゅーん氏)
極東ロシア・ウラジオストク市の第二次大戦記念碑(写真素材、photoAC。撮影・ぱりゅーん氏)

 1945年5月に行なわれた最高戦争指導会議では、本土決戦の完遂を前提とした対ソ外交の要点を、以下の三点として明記している。

1)ソビエトの参戦防止

2)ソビエトの好意的中立の獲得

3)戦争終結に関しソビエトをして日本に有利な仲介をさせる

出典:ドキュメント太平洋戦争「一億玉砕への道」(NHK取材班、角川書店)

 現在から振り返ると、全く日本側の楽観と虫の良い外交方針であるが、当時の戦争指導者達の素直な対ソ戦略の皮膚感覚であった。しかしこの日本側の期待を裏切るように、1945年2月の「ヤルタの密約」でソ連対日参戦は決定事項であったのは既に述べたとおりだ。また恐らくそのもっと前から―すなわち、ソ連が対独戦を有利に進めていた1944年の段階から―スターリンの頭の中で、対日宣戦布告は既定路線であっただろう。

 1945年8月9日、駐ソ大使・佐藤尚武は、ソ連を仲介した講和実現のため、日本側特使として元首相・近衛文麿をモスクワに派遣する用意があるとソ連外相モロトフに申し入れを行なう予定であった。しかしモロトフが佐藤に述べたのは、日本側特使の応諾などでは無く「日ソ中立条約の破棄とソビエト連邦による対日宣戦布告」であった。

 これにより、「本土決戦による一撃講和」「ソ連を仲介とした講和」という日本側の抱いていた希望は全て撃ち砕かれ、ソ満国境に結集した200万のソ連赤軍とその付属部隊が一斉に満州、朝鮮、南樺太、千島に襲いかかった。日本の戦争指導者が、ポツダム宣言受諾=無条件降伏を決断した決定的要因であった。

【4】知識人は原爆よりもソ連参戦に震撼した

「終戦日記」を読む(野坂昭如、朝日新聞出版・朝日文庫、2010年)
「終戦日記」を読む(野坂昭如、朝日新聞出版・朝日文庫、2010年)

 ソ連対日参戦は、当時の日本国内の知識人にも計り知れない衝撃とショックをもたらした。それは現在の私達からすると驚くべき事に、広島・長崎への原爆投下よりも遙かに衝撃的で、大きな出来事としてとらえられていた。

 山田風太郎(作家。1922年―2001年)の日記。

 昭和二十年八月九日、運命の日ついに日本に来る。ソビエトがついに日本に対して交戦状態に入ったことを通告し、その空軍陸軍が満州侵入を開始したと伝えた。

 ソビエトについてはこんな噂が囁かれていた。―ソ連はなお疲弊している。まだ手は出さないだろう。(中略)すでにソ連は日本に対し続々と石油を供給しつつある。(中略)松岡洋右がソ連へいって、アメリカとの戦争の仲裁を頼んでいる、とか―。

 こんな噂に耳をすませていた輩は、この発表に愕然と青ざめたことであろう。たしかに日本は打撃された。大きな鈍器に打たれたような感じだ。

 海野十三(作家。1897年―1949年)の日記。

 (ソ連参戦)と知って、私は五分ばかり頭がふらついた。もうこれ以上の悪事態は起こりえない。これはいよいよぼやぼやしていられないぞという緊張感がしめつける。(中略)

 とにかく最悪の事態は遂に来たのである。これも運命であろう。二千六百年続いた大日本帝国の首都東京が、敵を四囲より迎えて、いかに勇戦して果てるか、それを少なくとも途中まで、われらこの目で見られるのである。

 高見順(作家、詩人。1907年―1965年)の日記。

 ソ連の宣戦は全く寝耳に水だった。情報通は予想していたかもしれないが、私たちは何も知らない。むしろソ連が仲裁に出てくれることを密かに心頼みにしていた。誰もそうだった。(中略)そこへきていきなりソ連の宣戦。新聞にもさらに予示的な記事はなかった。

 店へ行くと、久米さんの奥さんと川端さんがいて、「戦争はもうおしまい――」という。

出典:以上全て『「終戦日記」を読む』(野坂昭如、朝日新聞出版)*仮名遣いや括弧・強調は一部筆者が修正

【5】映像情報が無いゆえに

 なぜ当時の戦争指導者や知識人や大衆は、広島・長崎への原爆投下よりもソ連対日参戦を重大事として受け止めたのだろうか。それは既に述べたとおり、当時、インターネットもテレビ中継も存在せず、被爆地がいかにむごたらしい惨状になっているか、それ以外の地域では映像として想像することが出来なかったからである。

 1945年8月6日の広島原爆投下時、当日に市内に入り撮影された6枚の写真があるが、これは軍属カメラマン・松重美人氏(1925年―2005年)が軍の命令と許可によって撮影されたものである。

 戦時中、一般市民が自由にカメラを携行して写真を撮ることは、防諜(スパイ防止)の観点から厳重に禁止されていた。またスケッチや風景模写も厳しく制限されていた。映像データがほとんどない当時、広島・長崎の惨状は情報の無さ故に軽視された。というより、被爆地が壊滅したために東京に送信される報告そのものがほとんど無く、詳細が不明だったのである。

 よって「頼みの綱」ソ連による対日参戦―裏切り、が日本社会を絶望のどん底にたたき落とし、ポツダム宣言受諾へと向かわせしめたのだった。これが歴史の事実である。すなわち、「原爆によって日本が降伏した」という歴史認識は歴史を後から見聞することの出来る現代人の感覚に過ぎない。

【6】軍の調査団すらも放射能被害に無知

 とはいえ、広島・長崎に原子爆弾が投下された事実について、軍部や政府が重大な関心を持っていたことは疑いようがない。ところが繰り返すようにドローン空撮も視聴者提供のスマホ動画も無い当時、原爆の実相を知るには、調査団が直接現地を訪問するしかなかった。

 よって1945年8月6日の広島原爆直後、陸・海軍はそれぞれ調査団を広島に送り込んで情報収集に当たっている。そのひとつ、呉鎮守府調査団(海軍)に加わった西田亀久夫氏は、8月7日に広島市内に入って、意外にも以下のように当時の様子を述懐しているのである。

 爆心に近いところの被災者は、全身の衣服が消滅し、性別が不明だった。相生橋*のところでは、欄干が強烈な爆風で飛び、自転車に乗ったまま、人が押しつぶされて、十センチくらいになって圧死していた。(中略)

 しかし、爆心地に近い、二、三百メートルのところの防空壕に入っていて、空襲警報が解除になったことを知らずに退避していた人が、無傷だったことが印象に残っているという。

「いま考えると、専門家として恥ずかしいけれど、原爆は、その攻撃を事前に探知して人間への被害さえ回避すれば、致命的な打撃を与えるものではない、『断固戦争を継続すべし』と正直なところそのときは思っていたのですよ。じつは、私の専門は放射能の測定だったのですが・・・」

出典:『ヒロシマはどう記録されたか-NHKと中国新聞の原爆報道-』(NHK出版編、NHK出版。*相生橋は広島原爆の投下目標)

 そう、被爆直後に広島市内に入ってその地獄の惨状を目にした調査団の専門家ですらも、当時「放射線障害」という、原爆の最もむごたらしい被害の側面を無視していた。いや、正確には無知故に、放射線のもたらす恐ろしさをこの時点では知らなかったのである。

【7】原子爆弾に打ち勝つための「対処法」を特集

1945年8月10日、ソ連対日参戦を大きく伝える朝日新聞紙面。左下赤で囲った部分は、「新型爆弾への対処」特集
1945年8月10日、ソ連対日参戦を大きく伝える朝日新聞紙面。左下赤で囲った部分は、「新型爆弾への対処」特集

 上記の新聞紙面は、ソ連の対日宣戦布告を大きく伝える1945年8月10日の朝日新聞紙面である。注目して欲しいのは、筆者が図示した赤枠内の記事。「野外防空壕に入れ 新型爆弾に勝つ途」とあり、一般市民へ原爆への対処法を特集している。

 記事内から抜粋すると、現代の私たちからすれば信じられないほど楽観的な原爆への対処法が平然と喧伝されている。

1)新型爆弾に対して待避壕は極めて有効であるからできるだけ頑丈に整備し利用すること。

2)軍服程度の衣服を着用していれば火傷の心配は無い。防空頭巾及び手袋を着用していれば手や足を完全に火傷から保護することが出来る。

3)前記の待避壕をとっさの場合に使用し得ない場合は地面に伏せるか、堅牢建物の陰を利用すること。

4)絶対に屋内の防空壕を避けて屋外の防空壕を使用すること。

(1945年8月)8日に発表した心得のほか、以上のことを実施すれば新型爆弾もさほど恐れることはない。なお新型爆弾に対する対策はつぎつぎ発表する。

出典:同上、強調筆者

 なにを悠長なことを言っているのだろうか、と現代の私たちは思うだろう。しかし、原爆の直撃にあった広島・長崎以外の日本人のおおよそ原爆に対する皮膚感覚とはこのようなものであった。

 原爆がいかに悲惨で、その放射能がいかに被爆者を苦しめたかの実相を知るのは、戦後、日本がGHQの検閲から脱して、独立を回復した以降のことであり、被爆の実相への理解は永い時間を要したのである。

【8】どちらに転んでも原爆投下は必要が無かった

 無論、「原爆によって日本が降伏した」という歴史観が100%間違っているとは筆者も言わない。事実、「終戦の詔書」では「敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻に無辜を殺傷し・・・」とある。この「残虐なる爆弾」が原子爆弾を指すことは言うまでも無い。

 よって二発の原爆が日本のポツダム宣言受諾の判断に対し影響がまったくなかった、と断定するわけではない。が既に縷々のべたように、当時の戦争指導者や日本の知識人ですら、原爆投下よりソ連対日参戦を深刻であると受け止めていた。

 「原爆によって日本が降伏した」という歴史観は、冒頭に戻るように、何としてでも原爆投下を正当化したいアメリカが創ったプロパガンダである。

 そして、歴史に「if」は無いが、仮に想像すれば、「原爆投下は行われているが、ソ連対日参戦が無かった場合」、日本はそのままずるずると降伏の決断を先延ばしし、本土決戦に突入していただろう。その場合、戦後日本の復興は無い。

 また、「原爆投下は無いが、ソ連対日参戦が史実通り行われていた場合」、日本はやはりポツダム宣言を受諾して無条件降伏していた。つまりどちらの想像「if」に転んでも、「原爆投下は必要が無かった」という結論に到達するのである。これを回避したいが為に、「原爆によって日本が降伏した」という歴史観が「後から」創作されたのだ。

 今回のBTSの原爆Tシャツ問題は、「原爆によって日本が降伏した=植民地解放」という歴史認識を背景にしたもので、必ずしも史実に基づいた正しい歴史認識とは言えない。朝鮮の解放は、皮肉なことにその後、朝鮮半島を分断する”主犯”のひとつ、ソビエトの対日参戦によってもたらされたのだ。

 単に口角泡を飛ばしてBTSを批判するだけではなく、もう一度、これらの事実を総合して、「原爆投下と日本降伏」の関係性を考えて頂ける端緒になれば、本稿の使命は全うされると筆者は思う。

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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